翻訳と辞書
Words near each other
・ 野田弘朝
・ 野田弥生
・ 野田彩加
・ 野田征稔
・ 野田恭平
・ 野田恵
・ 野田恵美須神社
・ 野田愛佳
・ 野田愛子
・ 野田成人
野田持忠
・ 野田改造内閣
・ 野田政権
・ 野田敬三
・ 野田敬生
・ 野田文一郎
・ 野田文蔵
・ 野田文隆
・ 野田新町駅
・ 野田昇吾


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

野田持忠 : ミニ英和和英辞書
野田持忠[のだ もちただ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

野田持忠 : ウィキペディア日本語版
野田持忠[のだ もちただ]
野田 持忠(のだ もちただ、生没年不詳)は、室町時代戦国時代の「永享の乱」から「享徳の乱」の時期に活躍した武将である。古河公方足利成氏の重臣であり、関東野田氏当主、下総国古河城主のちに下野国野田城の城主。野田右馬助とも呼ばれる。〔『戦国人名辞典』788頁(見出し「野田持忠」の解説・長塚孝執筆)〕
== 生涯 ==
生没年不詳。永享から康生年間(1429~1457年)に活躍した。実名中の「持」は鎌倉公方足利持氏偏諱である〔佐藤博信「野田家文書の伝来と現状」 『野田家文書』、9-16頁。 なお本稿は、佐藤博信 『中世東国の権力と構造』 校倉書店、2013年、281-300頁 にも収録。〕。
永享12年(1440年)、結城合戦の際に、結城方として古河城に立て籠った城主「野田右馬助」が「野田持忠」と考えられている。〔 〔籠城した「野田右馬助」の実名について、『古河志』では『鎌倉大草紙』における嘉慶元年(元中4年・1387年)の「古河住人」と同じ人物としている(『古河市史資料別巻』 227頁)が、この「古河住人」は「野田等忠」が該当する(例えば、『古河市史通史編』155 頁)。また『古河志』は実名として、『続太平記』の「野田右馬助行氏」、『関東古戦録』の「野田右馬允安重」を併記している。〕 『鎌倉大草紙』・『永享記』によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らとともに城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死した。〔『古河市史通史編』156 – 162 頁(永享の乱から結城合戦へ)〕
野田氏木戸氏とともに鎌倉府奉行衆宿老だった〔 〔『野田家文書』 No.6 群書類従本「殿中以下年中行事」〕。永享の乱で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏のもとで再興し、持忠もその家臣として活動を始める。宝徳3年(1451年)、野田持忠は「野田持保」の知行強入部している〔『野田家文書』 No.7〕 〔。これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つであるが、室町幕府から批判されることになる〔佐藤博信(1989) 、61頁(足利成氏とその時代)〕。 享徳4年(1455年)、享徳の乱のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野国野田城足利市)に入り、上杉氏に対抗した〔。
享徳の乱初期には、上野国岩松持国を足利成氏に取り次いだ。康生2年(1456年)以降の動静は不明である。〔 〔『野田家文書』 No.8~19〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「野田持忠」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.