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醍醐輝弘 : ミニ英和和英辞書
醍醐輝弘[だいご てるひろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

醍醐 : [だいご]
 (n) (gen) (Buddh) the finest thing in this world

醍醐輝弘 : ウィキペディア日本語版
醍醐輝弘[だいご てるひろ]
醍醐輝弘(だいご てるひろ、寛政3年4月27日1791年5月29日)‐安政6年9月9日1859年10月4日))は、江戸時代後期の公卿、廷臣。光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。
父は権大納言醍醐輝久。(猶子という形での)養父は関白一条輝良。母は徳島藩主蜂須賀重喜の娘・蜂須賀幸子、正室は蜂須賀至央(重喜の養父)養女・蜂須賀宗子(実父は至央の甥・休光)で、いずれも輝弘と同じく輝良の養子(養女)である。継室は准三宮鷹司政熙の娘。子に醍醐忠善権大納言醍醐忠順がいる。
== 生涯 ==
形式上、本家である一条家の猶子となっていたが、寛政5年(1793年)に叙爵、実家の家督を相続する。以降父同様に清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従左近衛権少将左近衛権中将を経て、寛政12年(1800年)に従三位に達して公卿に列する。その後、踏歌節会外弁・権中納言を経て、文化12年(1815年)に権大納言となる。
1819年、長男の忠善が生まれ家督も譲るが、翌年に死亡。再度当主となるが、1830年に次男の忠順が誕生し、翌年これに家督を譲った。
幼少の当主忠順を補佐する一方で、輝弘自身もその後長らく昇格しなかったが、天保11年(1840年)には踏歌節会内弁に就任し、弘化4年(1846年)に内大臣右近衛大将右馬寮御監に任命された。嘉永元年(1848年)すべての官職を辞した。嘉永2年(1849年)に従一位を授与された。1859年に亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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