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醍醐忠順 : ミニ英和和英辞書
醍醐忠順[だいご ただおさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

醍醐 : [だいご]
 (n) (gen) (Buddh) the finest thing in this world
: [じゅん]
  1. (adj-na,n,n-suf) order 2. turn 

醍醐忠順 : ウィキペディア日本語版
醍醐忠順[だいご ただおさ]

醍醐 忠順(だいご ただおさ、文政13年3月17日1830年4月9日) - 明治33年(1900年7月4日)は、江戸時代末期の公卿、廷臣。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。明治時代には政治家となり、特に初代大阪府知事として知られる。父は内大臣醍醐輝弘。母は関白鷹司政熙の娘。子に醍醐忠告醍醐忠敬一条忠貞醍醐忠直、娘に好子(賀陽宮邦憲王妃)、親子(鶴殿忠善妻)がいる。
== 経歴 ==
1820年に実子の忠善(忠順の兄にあたる)を喪い、跡継ぎがなかった輝弘であったが、10年後の天保元年(1830年)、その輝弘に待望の第二子である忠順が生まれた。翌天保2年(1831年)には家督を譲られて叙爵。以降清華家当主として速いスピードで累進し、侍従左近衛権少将左近衛権中将を経て、天保14年(1843年)に従三位となり、公卿に列する。(幼少期は隠居した輝弘が補佐をしていたものと思われる。)安政2年(1855年)の孝明天皇の遷幸に際しては御櫃中将として天皇に供奉。醍醐家は馬副4名、舎人2名、随身4名、雑色4名、傘1名の計15名を用意した。1859年に父・輝弘が亡くなった後、文久3年(1863年)に権大納言に任じられる。慶応元年(1865年)には踏歌節会内弁をつとめた。明治元年(1868年)の戊辰戦争にも従軍し、旧幕府残党の追討に大きな戦功があった。新政府では参与をつとめ、大阪裁判総督を経て初代大阪府知事となっている。のちに華族に列した。旧清華家として侯爵に叙せられている。
晩年は隠居し、家督は長男・忠告(1848年 - 1896年)が病弱ということで次男・忠敬(1849年 - 1899年)が継いだが、1899年明治32年)5月23日、この家督相続が原因となり、東京府麹町にある自身の邸宅にて子の忠敬が、甥の格太郎(忠告の子)に射殺され死亡するというスキャンダルが発生した。忠敬の嫡男・忠重はまだ幼少であったため、忠順が再度当主となったが、翌年忠順も亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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