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那須隆 ( リダイレクト:弘前大学教授夫人殺人事件 ) : ウィキペディア日本語版
弘前大学教授夫人殺人事件[ひろさきだいがくきょうじゅふじんさつじんじけん]

弘前大学教授夫人殺人事件(ひろさきだいがくきょうじゅふじんさつじんじけん)は、1949年昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件とも呼ばれる〔鎌田 (2006) 38頁〕。
1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。弘前市警は近隣住民の無職の男、那須隆を逮捕勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。
一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。1951年(昭和26年)に下った一審判決では那須は殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。仙台高裁で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、1952年(昭和27年)の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、那須は懲役15年の有罪判決を受けた。やがて判決が確定した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。
しかし、事件から20年以上が経過した1971年(昭和46年)になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は日本弁護士連合会読売新聞などの協力を得て再審を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。1974年(昭和49年)に請求は一度棄却されたが、翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した1977年(昭和52年)、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、那須の全面敗訴となった。
== 背景 ==

1945年昭和20年)、第二次世界大戦での敗北によって連合国軍日本に進駐し、占領政策の一環として学制改革が開始された。これを受けて、1948年(昭和23年)2月に青森県弘前市に設置されたばかりの旧制弘前医科大学(弘前医大)も、併存していた前身校の青森医学専門学校(青森医専)とともに、国立学校設置法によって1949年(昭和24年)5月に新制弘前大学(弘大)の医学部へと再編された〔弘前大学医学部三十年史編集委員会 (1976) 54頁〕。しかし、実際に弘大医学部が開設されたのは翌々年の1951年(昭和26年)4月のことであり〔弘前大学医学部三十年史編集委員会 (1976) 59-60頁〕、弘前大学教授夫人殺人事件はこの大学再編の過渡期に発生した事件である。
当時の弘前医大で学長を務めていたのは東北帝国大学(後の東北大学)元教授精神科医丸井清泰であり、学内では東北大学系の学閥が力を持っていた〔鎌田 (2006) 37頁〕。同時期に東北大学から赴任してきたばかりの松永藤雄もまた、丸井の片腕として大きな政治力を持ち、同大学教授と大学附属病院内科部長も務めていた〔鎌田 (2006) 11頁、37頁〕。松永は1947年(昭和22年)から弘前市在府町で、妻S(事件当時30歳)と2人の子供たちとともに住むようになった〔鎌田 (2006) 7頁、13頁、54頁〕。一家が身を寄せたのは松永が東北大学に勤務していた頃の患者宅の離れで、その付近には古くからの武家屋敷が立ち並んでいた〔鎌田 (2006) 11頁、13頁〕。
その屋敷町の、松永一家の寄宿先から200メートル足らずの距離に屋敷を構えていたのが、下野国を治めていた戦国大名那須氏直系の家であった〔井上 (2011) 11頁、20-21頁〕。統一那須家から数えて15代目の時代に東京の屋敷を台風で失い、かねてから養子縁組などで縁の深かった津軽家を頼って弘前へ移り住んだ那須家であったが〔井上 (2011) 20-21頁〕、農地改革小作地を奪われた当時の那須家は没落状態にあった〔鎌田 (2006) 47頁〕。この家庭に12人きょうだいの次男(長男は夭逝したので実質的な長兄)として生まれたのが当時25歳の那須隆(なす たかし)である〔鎌田 (2006) 31頁〕。1943年(昭和18年)に東奥義塾を卒業し、かつては満州国興安総省開拓団指導員や青森県通信警察官としても働いていた那須であったが、通信警察が廃止されてからは定職に就けず、失業者として暮らしていた〔井上 (2011) 22-23頁〕。しかし、那須は長兄として家族を養うために警察官に戻ることを考えていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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