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那須頼資 : ウィキペディア日本語版
那須頼資[なす よりすけ]

那須 頼資(なす よりすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将下野那須氏4代当主。実父は宇都宮朝綱。3代当主那須資之の養子とされる〔が、初代当主那須資隆(太郎)と朝綱娘との庶子(那須小太郎宗高)とする説もある。
については、寺山観音寺所蔵の「那須継図次第」等では資頼(すけより)〔阿部能久「観音寺所蔵「那須継図次第」について」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)P.71)。尚、この系図は元和5年(1619年)前後に書かれた、数ある那須氏系図の中では最古のものとされているもので、その後に作られた『寛政重修諸家譜』にもこれと同様の内容が掲載されている(同前論文(山本、2012年、P.65))。〕、『玉燭宝典』紙背文書所収の那須系図等では頼資としているが、いずれの名乗りを見ても、烏帽子親である源頼朝安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.447 「那須助員」の項(執筆:並木優記)。尚、助員については那須資村の息子と考えられるものの、『吾妻鏡』に登場する程度で、系譜についての詳細は不明としている(同前)。〕から偏諱(「頼」の一字)を与えられた〔「那須系図」(『群書系図部集 四』P.338)の頼資の付記に「従頼朝卿(被下 脱か、〔ママ〕)拝領御一字。有子八人。一男光資。」とある。〕ということが窺える(資頼を初名、頼資をその改名後の諱とする説もある〔)。のちに頼朝が建久4年(1193年)に那須へ巻狩に出かけた際には既に当主は子の光資となっていたと伝わっていることから、系図通りの順番(資隆(太郎)→資隆(与一)→資之→頼資)に継承があったと仮定するならば当主として活動した時期は短期間であったと推測される。
子の資長はのちの那須七騎伊王野氏の祖であり、その他の子も荏原氏河田氏などの支族をおこしている。なお、娘の一人は小栗頼重常陸小栗氏)に嫁いだが、その際に同行した侍女と小栗一族の男との間に生まれた子の末裔がのちの那須七騎大関氏となったという。
== 脚注 ==




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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