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近衛十四郎 : ミニ英和和英辞書
近衛十四郎[このえ じゅうしろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

近衛 : [このえ]
 【名詞】 1. Imperial Guards 
: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
十四 : [じゅうよん]
 【名詞】 1. 14 2. fourteen 
: [よん]
  1. (num) four 

近衛十四郎 : ウィキペディア日本語版
近衛十四郎[このえ じゅうしろう]

近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。本名、目黒 寅彦(出生名、寅一から改名)。新潟県長岡市出身。
== 来歴・人物 ==

=== 戦前・戦中 ===
新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカの長男として生まれる(姉と妹に挟まれた長男だが、実の長男は早世しており正確には次男)。幼少の頃に両親と死別した。
工業学校卒業後、鉄道建設事務所に勤めていたが〔長岡市立中島尋常高等小学校(現・長岡市立中島小学校)卒業後、という説もあり明確ではない。〕、映画俳優を目指し、市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する。最初の芸名は長岡 秀樹だった。その後、役者の腕ではなく野球の巧さ(ショートの守備は映画界でも白眉だったという)を買われて日活に引き抜かれるが、専ら「鉄棒組(大勢で「御用!御用!」と連呼する「捕り手」集団の一人)」に甘んじていた。
1934年、長岡が20歳のとき、右太衛門プロから独立し枚方市に映画製作会社「亜細亜映画」を設立したばかりだった映画監督白井戦太郎に見出され、白井の勧めで近衛 十四郎と改名〔「十四郎」は「1914年生まれ」であることに由来している。松方には「十四というのはラッキーセブンを二倍にした数でとても縁起のいい名前なんだぞ」と教えていたという。〕。4月には亜細亜映画第1回作品『叫ぶ荒神山』に主演。吉良の仁吉役でデビューを飾り、続けて翌月には『曲斬り街道旅』でも主演を務める。 その後、亜細亜映画は第一映画社と改称、さらに近衛の主演作を1本撮るが興業的に不振に終わり、9月に発生した室戸台風で撮影所が倒壊、資金難から再建不能に陥り、結局、この年限りで倒産する。
1935年、21歳で白井とともに大都映画社に移って主演。剣戟の看板スターとしての名声を獲得する。
1936年兵役法の命により、新潟の新発田歩兵第16連隊に入隊する。1939年、映画界復帰。ちなみに大都映画ではこの「近衛不在」という事態を受け、松竹から引き抜いたのが大乗寺八郎だった。近衛復帰後は1942年に大都映画が合併で消滅するまで、互いにライバル心を燃やしたという。
1941年第二次世界大戦が勃発、この年に女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚。
1942年、28歳。戦時映画社統合によって大都映画社は日活、新興キネマとともに合併され大日本映画製作株式会社(大映)となる。大映は既に剣戟四大スター(阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎市川右太衛門)を抱えており、これに加え、フィルム統制により製作本数が激減したことにより多くの俳優が仕事を失うという状況下、近衛は妻・やゑ(女優・水川八重子)と大都映画の退職金2人分を投じ、一座を結成して国内各地を実演興行して回った。座員は大都映画から引き連れた俳優に浅草の軽演劇から名うての役者を数名引き抜き、多い時には総勢50名近い大所帯だった。7月、長男・浩樹(こうじゅ。のちの松方弘樹)誕生。
そのさ中に再び召集を受け出兵。第19師団を有した朝鮮羅南で終戦を迎えた。その後は中国延吉に送られ、1年9か月の間、捕虜生活を送った。劣悪な環境で栄養失調になり発疹チフス壊血病に苦しんだという。その後シベリアへ連行される予定だったが、食事を摂らず痛がる演技をするなどして、連行を逃れている。1946年赤羽復員から除隊した。
1947年8月、次男・祐樹(のちの目黒祐樹)が誕生。
その後は実演を再開、〔戦後間もない映画界ではGHQによりチャンバラ映画が一時禁止され、片岡千恵蔵の『多羅尾伴内』シリーズなど、拳銃を手にしたアクション映画が多作される中、監視の効かない実演では剣戟が行われていた。〕多くの映画俳優が映画界に復帰する中、近衛は1952年まで10年間にわたり、実演興行に拘り続けた〔品川隆二は後年、インタビューでこの当時の近衛について「すげぇポン中(ヒロポン中毒)だったんだよ」と証言している。「終戦後一座を組んで地方巡業、ドサ回りしているときに、ヒロポンが切れてくると、堀部安兵衛なんかやりながら、剣を構えて、正眼から片手になって、舞台の袖につっこむ。で、ぱーっと手を出すと若い衆が、ぴんぴん打つんだって。そうすると、それからの立ち廻りがすごいんだっていうんだなあ。でね、落ちてる槍を右足の親指と人差し指ではさんでびゅーんと蹴り上げるんだって。」そう語る一方で、品川自身も愚連隊に入り裏社会に関与、同じくヒロポン中毒だったという。 「近衛十四郎と品川隆二」(品川隆二・円尾敏郎著、 ワイズ出版)〕。しかし、1940年代末期、GHQによるさまざまな規制が緩和され、実演興業でも浅草を中心にストリップが息を吹き返すと、客足は一気に流れ、剣戟芝居の人気は衰退の一途を辿っていった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「近衛十四郎」の詳細全文を読む




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