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藤本定義 : ミニ英和和英辞書
藤本定義[ふじもと さだよし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
藤本 : [ふじもと, とうほん]
 【名詞】 1. climbing trees 2. liana 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
定義 : [ていぎ]
  1. (n,vs) definition 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 

藤本定義 : ウィキペディア日本語版
藤本定義[ふじもと さだよし]

藤本 定義(ふじもと さだよし、1904年12月20日 - 1981年2月18日)は、愛媛県松山市生まれのプロ野球監督
==来歴・人物==
松山商業早稲田大学では投手として活躍、1925年秋の復活早慶戦で勝利投手となる。鋭いカーブを操り「カーブの藤本」と言われた。卒業後、東京鉄道局野球部(現:JR東日本)の監督。1935年、第1回アメリカ遠征から帰国した東京巨人軍との巡業試合で2勝をあげる。この時の巡業で巨人は36勝3敗であり、その3敗のうち2敗を喫させた手腕を見込まれ巨人監督に招聘される〔前掲『ジャイアンツの歴史』p.83〕。
1936年6月16日に第2回アメリカ遠征から帰国したチームに合流、この年から始まった公式戦に臨んだが直後の夏季大会で2勝5敗と惨敗(こうした経緯から巨人の球団史は藤本を初代監督と位置づけている)。アメリカ遠征のおごりがあったチームを鍛え直すために兵役の終わった三原脩を助監督兼任選手として復帰させ群馬県館林市分福球場で猛練習を行った〔前掲『プロ野球40年史』p.47〕。秋季大会は順当に勝利を重ね、巨人を公式戦第1回優勝球団に導いた。在任7年間の9シーズンで7度の優勝という第一次黄金期を築き、1942年シーズン終了をもって辞任(なお、当時藤本は巨人の運営会社株式会社大日本東京野球倶楽部取締役も兼任しており、取締役についても辞意を表明していたが、球団は監督辞表のみ受理した)。その後藤本は朝日軍オーナーの田村駒治郎から、田村が経営する田村駒の秘書という役職に迎えられ、空襲で家を失った戦争末期には東京の田村駒別邸に身を寄せていた。田村が藤本を呼んだのは、将来朝日軍の監督にする意向があったためであった〔前掲『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』P40 - 41〕。
田村の意向を受ける形で1946年パシフィックの監督として球界復帰。また、選手の待遇改善のために日本野球選手会〔現:日本プロ野球選手会〕を発足させ、初代会長に就任した。太陽ロビンスに球団名変更した1947年限りで監督辞任・退団。1948年から1956年まで金星スターズ(1949年からは大映スターズに球団名変更)の監督。1957年から1959年阪急ブレーブス監督。1960年阪神のヘッド兼投手コーチ、1961年途中から阪神監督に就任。1962年には「打倒巨人」を掲げて〔前掲『プロ野球40年史』p.260〕 巨人OBの青田昇をヘッドコーチに招聘し、1962年1964年にリーグ優勝。1966年杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年勇退。監督としての実働期間29年は歴代最長。及び(正式登録上の)監督としての在籍球団数5球団は三原脩・石本秀一と並ぶ最多タイ記録。1968年における一軍監督在任は、プロ選手としての経験が無い一軍監督が在任した最後の例となっている。
戦前は「茂林寺の猛練習」からスパルタ監督のイメージが強かったが、戦後は「伊予の古」の異名をとる程知略を前面に出していた。また選手の人心掌握に優れた監督だった〔阪急ブレーブス黄金の歴史  よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p30〕。
1937年のリーグ戦では「同一球団の2連戦には初戦に沢村栄治、2戦目にヴィクトル・スタルヒン前川八郎をたてる」「先発投手には事前に登板日を予告する」〔前掲『ジャイアンツの歴史』p.103〕 など現在の先発ローテーションに繋がる考えを持ち、1957年から1959年阪急監督時代に日本プロ野球で初めて「先発ローテーション」を本格的に導入。当時同球団のエースであった米田哲也梶本隆夫を一定の登板間隔で起用し、当時一般的であったエースの連続起用を指して「30勝投手を出すのは監督の恥」と批判した。阪神でもローテーションを守った投手起用をこころがけ、1962年小山正明村山実両投手、1964年ジーン・バッキーの活躍で優勝した。小山、村山を軸に、ペナントレースの焦点となる巨人戦から逆算するなど先々の試合まで先発投手を決めておいたため「巻紙ローテーション」と呼ばれた。ただし先発中継ぎ・抑えといった投手分業制は嫌っており〔、先発完投型の投手像を追求。1962年には小山が26完投、村山が23完投、1964年にはバッキーが24完投している。
自身が投手だったこともあり、若手投手をかわいがった〔 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P30-P31〕。肩を痛め、巨人から冷遇されていた沢村を親身に世話し〔、ロシア系ということもあり、チームメートからいじめられることもあったスタルヒンを常にかばった〔。阪神時代は江夏豊〔。宿舎の部屋に江夏を呼んで、お茶を飲みながら、よくスタルヒンと沢村の話をしたという〔。のちに1979年に、広島で江夏が初めて優勝を経験した際にも杖をついて現れ「良かったなあ」とボロボロ泣きながら祝福した〔。
1970年から報知新聞評論家。1974年野球殿堂入り。同年から1979年までサンテレビ野球解説者を務めた(主に阪急戦の解説を担当)。1981年2月18日死去、。
最初の妻は戦争中の1945年に失い、その後まもなく田村駒治郎の世話で田村の遠縁の女性と再婚している〔前掲『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』P72〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤本定義」の詳細全文を読む




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