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田村駒治郎 : ミニ英和和英辞書
田村駒治郎[たむら こまじろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [こま]
 【名詞】 1. shogi pieces 

田村駒治郎 : ウィキペディア日本語版
田村駒治郎[たむら こまじろう]

田村 駒治郎(たむら こまじろう、1904年2月21日 - 1961年1月21日)は日本の実業家。大阪の繊維商社田村駒〔1918年の会社設立時は「田村駒商店」で、1943年3月に「田村駒」に改称。1957年1月に常盤鋼材の営業権を譲受して「田村駒常盤」に改称、駒治郎没後の1977年3月に「田村駒」に戻っている 。以下の文中では「田村駒」に表記を統一する。〕 の経営者であった。また、戦前から戦後にかけて松竹ロビンスにつながるプロ野球団のオーナーであったことでも知られる。
なお「田村駒治郎」の名前は世襲で、本項に記載するのは二代目である。以下の文中では断りがない限り「駒治郎」は二代目を指し、その他の駒治郎については「×代」を前に付けて区別する。また、文献によっては「田村駒郎」の表記が見られる場合があるが、誤りである。
== 生涯 ==
1904年、大阪市東区(現・中央区)に、田村駒創業者である初代駒治郎の長男として生まれる。出生時の名前は「駒太郎」であった。少年時代より野球を愛好する。大阪市立天王寺商業学校1921年に卒業すると、田村駒に入社して社業に従事する。当初は丁稚であったが、2年後から販売の仕事に就き、優秀な成績をあげる。1926年8月、希望していた欧米旅行が父に認められ、翌年1月にかけて、西回りのルートでヨーロッパとアメリカを訪れる。この旅行でアメリカの社会や風俗に多大な影響を受けたとされる。また、当時日本にはなかったプロ野球に接し、球団のオーナーが社会的に尊敬されることを知る。帰国後、安田財閥一門の安田善助(安田善次郎の甥)の次女と結婚。
1931年3月に父が死去し、二代目駒治郎を襲名。2ヶ月後に社長に就任すると、船場の商家のスタイルを残していた田村駒を近代的な企業にするための改革に取り組む。住み込みだった従業員のために社員寮を建設し、番頭手代などの職制を部課長などの役職に改め、従業員の服装も着物から洋装に変えさせた。さらに1936年には本社を6階建てのビルディングに建て替え、古い木造の商家がまだ多く残っていた船場の中でひときわ目立つ存在となった。このような急進的な改革には社内の批判もあり、伊藤萬に対抗して開かれて間もない御堂筋沿いに本社を移す構想は「初代の意志に背く」との反対から断念を余儀なくされている。
駒治郎は製販一体の事業をめざして1934年に繊維製造の太陽レーヨンを設立。翌年に岡山県玉島町(現・倉敷市玉島)にレーヨン工場を建設して操業を開始した。1936年には岐阜県大垣市にもスフの工場を建設したものの、後発メーカーのために伸び悩む。新たな仕入先と市場を求めて満州や中国への進出を企図したこともあった。
1937年夏、プロ野球のライオン軍に資本参加。同年シーズン終了後にチームを買い取り、オーナーとなった。また、田村駒と太陽レーヨンでクラブチームを結成した。田村駒は1938年の都市対抗野球で大阪府代表(大阪市)。翌1939年の大会では庄内田村駒(庄内町、現豊中市)と太陽レーヨン(大阪市)が大阪府代表となり、庄内田村駒は準優勝となった〔これらのチームからプロ野球入りした選手に中谷準志酒沢成治灰山元治道仏訓らがおり、このうち中谷・酒沢・灰山はそのままライオン軍に進んでいる。〕。プロ野球への参入についても社内には「社長の道楽」と反対する意見があったが、駒治郎はそれに従うことはなかった。先の社屋の件でも不満を抱いていた初代の片腕であった叔父の平松徳三郎とそれに従う社員が、これを原因にすべて退職することとなった。
1941年、太陽レーヨンは戦争による企業統合に伴い、義父の安田善助が社長を務めたこともある帝国製麻と合併し、帝国繊維に改称。駒治郎は副社長に就任する。帝国繊維は国の指定工場となったが、太陽レーヨンから引き継いだ岡山のレーヨン工場は指定を受けられずに休業、政府の命で航空機のエンジン製造工場への転換を図り「帝繊航空」を名乗るも、生産に至る前に終戦を迎えた(のちにGHQの命令により1949年解散)。
田村駒は本社が大阪大空襲で損壊、駒治郎自身の西宮市の邸宅(「一楽荘」という名称があった)も空襲の被害を受けた〔一楽荘は現在の西宮市甲子園砂田町1~5丁目にあった。跡地は一戸建ての住宅地になっている。〕。駒治郎は社業の復興とプロ野球の再開に力を注ぐが、1946年2月に物資隠匿の嫌疑を受けて逮捕拘禁され、釈放後も1947年2月に公職追放の対象となる。同年春に帝国繊維の会長(戦後に副社長から異動)を辞任、8月には田村駒の代表取締役も辞任し、球団オーナーのみが肩書きとなった。1949年9月、公職追放の解除や隠匿容疑に対して無罪が確定したことから代表取締役に復帰。
1950年、松竹ロビンスが最初のセントラル・リーグ優勝チームとなった。この時期、田村駒の社業も復興の軌道に乗り、さらなる拡大と総合商社化を目指して1951年、24年ぶりとなるアメリカ視察をおこなう。その目的は、繊維材料の買い付けと非繊維部門での輸入品目買い付けだった。このとき、駒治郎は材料として大量の毛屑を買い付けたが、帰国後に朝鮮特需が一段落して過剰在庫と化した。しかもより高級な材料へのシフトで毛屑は大きく価値を下げていた。これが引き金になって子会社が倒産、繊維業界の不況も相まって緊縮経営へと転換を余儀なくされる。この業績悪化は、松竹ロビンスの経営を圧迫することとなった。1952年のシーズン終了後、ロビンスは大洋ホエールズと合併し、駒治郎はオーナーの地位を去った。
駒治郎は社業に専念することとなったが、1954年の金融不況で融資が引き締められ、田村駒は経営の危機に瀕した。三和銀行が支援に入り、その後第一物産(現・三井物産)や常盤鋼材からも支援を受けて再建が進められる。各社からは代表取締役も送り込まれ、駒治郎は社長にはとどまったが繊維部門の責任者という立場で働いた。1961年1月、社長在職のまま心臓発作で死去。享年58(56歳没)。晩年は経営悪化のストレスと長年の大食から胃の異常を抱えていた。
没後の1970年、生前のプロ野球と社会人野球に対する功績が認められ、野球殿堂の特別表彰を受けた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田村駒治郎」の詳細全文を読む




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