翻訳と辞書
Words near each other
・ 菅考之進
・ 菅聡子
・ 菅聡美
・ 菅舜英
・ 菅良二
・ 菅良助
・ 菅良太郎
・ 菅良幸
・ 菅英三子
・ 菅英輝
菅茶山
・ 菅茶山 (小惑星)
・ 菅虎雄
・ 菅裕一
・ 菅裕明
・ 菅裸馬
・ 菅谷
・ 菅谷はつ乃
・ 菅谷不動尊
・ 菅谷中学校


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

菅茶山 : ミニ英和和英辞書
菅茶山[かん ちゃざん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちゃ]
 【名詞】 1. tea 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

菅茶山 : ウィキペディア日本語版
菅茶山[かん ちゃざん]

菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日1748年2月29日)- 文政10年8月13日1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者漢詩人は晋帥(ときのり)。は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。
== 経歴 ==
農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都那波魯堂朱子学を学び、和田東郭古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村大典顕常などと邂逅した。
故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。
塾は1796年(寛政8年)には福山藩郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))
廉塾の門人には、頼山陽北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。
「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「菅茶山」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.