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荻昌弘 : ミニ英和和英辞書
荻昌弘[おぎ まさひろ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おぎ]
 【名詞】 1. kind of plant 

荻昌弘 : ウィキペディア日本語版
荻昌弘[おぎ まさひろ]

荻 昌弘(おぎ まさひろ、1925年8月25日 - 1988年7月2日)は映画評論家料理研究家、オーディオ評論家。月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から〔皿井垂『トラウマ日曜洋画劇場』p.55(彩図社、2013年)〕、淀川長治水野晴郎と並んで名解説者として知られた。身長165センチ、体重69キロ〔荻昌弘『男の縁日』p.214(大和出版、1979年)〕。
==人物==

===来歴===
東京府東京市小石川区大塚仲町(現・東京都文京区大塚)に生まれ育つ。男4人、女1人のきょうだいの長男〔小林信彦『テレビの黄金時代』p.46(文藝春秋社、2002年)〕。「荻家はもともと裕福であって、ビンボーには向いていない。荻さんがグルメ評論やオーディオ評論を始めたのは、好きだからであり、こうした多趣味は荻家の兄弟に共通している」と、荻家と古い交際があった小林信彦は書いている〔小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.48(弓立社、1989年)〕。東京府女子師範学校附属幼稚園(現・東京学芸大学附属幼稚園竹早園舎)を経て、1932年4月、東京府女子師範学校附属小学校(現・東京学芸大学附属竹早小学校)に入学〔「私は今まで入学試験で自分の志願する学校、第一志望の学校へ一発でずばりと入ったというためしが一度もないんです。小学校も第一志望のところを落ちまして、そんなことを申しますと、私の母親がよほど教育ママかというふうに思われる方があるかもしれませんけれども、実は私が生まれて私が育ったところが、ちょうど日本でそういう国立のいわゆる伝統ある学校がいちばんひしめいてしまっているところで、中国の孟子のお母さんならそこへ住んだだけで小躍りしそうな場所で、要するに場所が恵まれていたということにすぎないのですけれども、ともかく小学校のときも第一志望の学校をすべってしまって、第二志望の学校へ入りました」(『NHK文化講演会15』所収「今、教育に思うこと」における発言。p.154)〕(当時の同級に椿實岡田孝男がいる)。物心つく前から映画を愛し、浅草で35ミリの名作映画のフィルムの断片を買い、映写機で壁に映し出して喜んでいた〔『週刊朝日1979年7月27日号「異色連載対談女が迫る」大竹しのぶの巻。〕。小学校時代には榎本健一ジョニー・ワイズミュラー大河内傳次郎に夢中になり、学校からの帰りには映画館のポスターを一字残らず暗記して帰るほどだったが〔、職業軍人である父からは映画鑑賞を厳禁され、古本屋で買ってきたスター名鑑を庭に叩きつけられた上「家を出てゆけ」と言われたこともある〔荻昌弘「わが十代」(『スクリーン1974年3月号)〕。第一志望の国立、第二志望の東京府立に落ちて旧制開成中学校に入学。この第三志望の学校の中でも自分より成績のいい生徒が大勢いたため、荻は二重の屈辱感を持ったが、学校で開かれたマラソンの参加体験を「疲れた疲れた」と題して作文に書いたところ、作文教師の安村正哉からこれを大変ほめられて劣等感を癒され、それが文筆業に進む出発点となったという〔「第一志望に落ちて、第二志望も落ちてしまいまして、私の場合はやっと第三志望の私立中学校に入学できました。私が合格してずっと5年間通いました旧制中学は、今は日本でいわゆる進学名門校の代表みたいになってしまいました東京開成中学といいます。ただし私の入ったころは、東京の私立の学校では麻布、開成というと大変伝統のある学校ということになっておりましたけれども、入ってくるのはみんな私と同様、第一志望の国立、第二志望の東京府立、今の東京都立ですが、そこを落ちた結果の開成という連中ばかりなんですね。みんな心の中にそれぞれの屈折感を持って、もっと言えば挫折感も抱いて入ってきている少年ばかりでした」(『NHK文化講演会15』所収「今、教育に思うこと」における発言。p.156)。荻の1年後輩の渡邉恒雄も第一志望の府立高尋常科、第二志望の武蔵高尋常科、第三志望の府立一中の入試にそれぞれ失敗して開成に入ったため、母から「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前で泣かれたという(魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社文庫2003年、p.26)。〕。同校在学中は単独で映画館に出入りすることを学校から禁じられていたため、隠れて『オーケストラの少女』『格子なき牢獄』『巴里祭』『望郷』『未完成交響楽』『舞踏会の手帖』『駅馬車』などの洋画に熱中。
1943年昭和18年)に開成中学校を卒業。旧制高等学校の入試に失敗し、開成中学校からの推薦により、二松學舍専門学校(現・二松學舍大学)に無試験入学〔『NHK文化講演会15』所収「今、教育に思うこと」における発言。p.158-159。〕。しかし1年生の2学期からは戦争が盛んになったため授業がなくなり、赤羽の化学工場に勤労動員され、工員として肥料作りを担当〔荻昌弘「あとのない初年兵」(『わが聯隊 陸軍郷土歩兵聯隊の記録』ノーベル書房、1978年)〕。当時、二松學舍の教員の中でただひとり赤羽の化学工場に来て15分間の小休止時間に『源氏物語』『たけくらべ』などの古典の話をしてくれたのが国文学者の塩田良平(のちの二松学舎大学学長)だった〔『NHK文化講演会15』所収「今、教育に思うこと」における発言。p.159。〕。この化学工場における塩田の小講義を、荻は後年「私が受けた学校教育の中でいちばん強い思い出」〔『NHK文化講演会15』所収「今、教育に思うこと」における発言。p.160。〕と回想している。一方、二松學舍の歴史教師には当時ひたすら皇国史観を唱える者がおり、この教師は戦後有名な歴史学者となったが、戦時中と打って変わって唯物論による人民史観を提唱するようになったため、荻は「こういう生き方だけはしたくない」「私にとっての反面教師はその先生一人」「時代の流れでこんなふうに自分を変える生き方だけはしたくない」と、後年発言している〔『NHK文化講演会15』所収「今、教育に思うこと」における発言。p.162。〕。当初は国語教師を志望しており、教員免状も取得したという〔。
1944年(昭和19年)夏、徴兵検査で第2乙と判定され、小石川区役所から「筋骨薄弱でお国の役に立つかっ」と怒鳴られて強制的に熱海の健民修練所という合宿に送られ、毎朝5時から夜まで1ヶ月間のしごきを受ける〔荻昌弘『歴史はグルメ』p.167(中公文庫、1986年)〕。1945年(昭和20年)春に召集令状を受け、同年5月15日、第二乙の陸軍二等兵として博多の東公園に集合。この間、4月13日東京大空襲で大塚の実家が焼失。本籍地が熊本だったため九州の西部243部隊に入り、壱岐で伝令として活動しつつ『十八史略』『北越雪譜』を読む。この部隊には老兵が多かったため、軍隊にありがちな新兵いじめは免れたという。
二等兵として復員後、1946年(昭和21年)、東京帝国大学文学部国文学科に入学。同じゼミに三浦朱門がいた。同年夏、友人2人と京都に伊丹万作の遺族を訪ねたが、土産に持参した羊羹がかびていたことに後で気付き、肝を潰したという〔荻昌弘『歴史はグルメ』p.114(中公文庫、1986年)〕。このころ、黒澤明の『わが青春に悔なし』にエキストラ出演〔。「大河内伝次郎扮する教授が、戦争前の京都大学でお別れの講義をする。それを聞いている学生の中に、ぼくが一人で映っているのです」と、後年語っている〔。
大学在学中から中平康渡辺祐介たちと「東大映画文化研究会」を結成し、映画評論家志望を宣言。当時、友人の三浦朱門や阪田寛夫映画監督を志望して映研への入部を望んだが、荻が「ああ、いいよ。だけど、入るときは試験をするぞ」と答えたため腹を立て、映画監督志望を断念したという〔荻昌弘『男の縁日』p.210(大和出版、1979年)。ただし荻自身は「私は全然、そんなイジワルを言った覚えなど、ないのである」と述べている。〕。また、同じ頃、友人の佐々克明の自宅で東大在学中の吉行淳之介と知り合ったが、荻は作家としての吉行エイスケを尊敬していたため、遺児の淳之介に強い印象を受けた〔吉行淳之介『新面白半分対談』(講談社、1975年)〕。映画批評家としては飯島正清水千代太清水晶登川直樹双葉十三郎に師事〔『荻昌弘の映画批評真剣勝負』p.5ならびにp.9-10。〕。1948年の『映画評論』に「論壇時評」を書くなど、大学時代から映画評論の仕事を開始〔小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.46(弓立社、1989年)〕。1951年(昭和26年)、新制東京大学卒業。卒論は「近代日本の劇文学」〔『荻昌弘の映画批評真剣勝負』p.9〕。
大学卒業後はキネマ旬報社に入社。『キネマ旬報』同人や『映画旬刊』(雄鶏社)編集委員を務めた。雄鶏社時代は、別の映画雑誌の編集部に向田邦子がいた。『映画旬刊』廃刊に伴い、1956年(昭和31年)6月からフリーになり〔当人は「実質は、清水千代太氏、滋野辰彦氏、進藤光太氏、品田雄吉氏らと、出版社を追っ払われた」と記している(『荻昌弘の映画批評真剣勝負』p.235)。『NHK文化講演会2』所収「私の中のテレビ史」では「出していた雑誌がつぶれたので自動的にフリーになった」(p.140)とも発言している。〕、KRテレビ(後のTBSテレビ)『映画の窓』でレギュラー司会者として映画解説を担当。日本の映画評論家でテレビのレギュラー番組を持ったのは、荻が最初であった〔小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.47(弓立社、1989年)〕。『週刊朝日』では映画評を8年間連載。1957年勅使河原宏松山善三羽仁進草壁久四郎川頭義郎丸尾定武者小路侃三郎向坂隆一郎と「シネマ57」を結成し、短篇映画『東京1958』の共同製作に参加。1958年、文部省芸術祭テレビ部門審査委員となる。1962年、NHK演出審議会委員に就任。この当時までの荻昌弘について、「軽い、というのは、いまならホメ言葉だが、東京オリンピック前は、そうではなかった。荻さんは、<軽すぎる>と見られ、二十代のころのぼく、そう見ていた」と小林信彦は証言している〔小林信彦『セプテンバー・ソングのように 1946‐1989』p.47-48(弓立社、1989年)〕。
1970年(昭和45年)4月から1987年(昭和62年)9月までTBSテレビ月曜ロードショー』の解説者を務め、同番組終了後、1987年10月から同局の火曜日の『ザ・ロードショー』の解説者を務め、没年の5月に体調不良で休むまで続けた。落ち着いた雰囲気で視聴者に語りかけるスタイル、そして映画が始まる前はストーリーには極力触れず、出演者やスタッフにまつわる話に絞った解説はおしなべて好評であった。東京都立大学非常勤講師として映画を講義した他、食通としても知られ〔丸谷才一『低空飛行』p.252〕、さつま揚げコンビーフはんぺんなどを自宅で自製し、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。ただし当人は食通と呼ばれることを嫌い、「『食通』とは、最もなりたくない、最も嫌悪し最も自戒するタブーの領域である」と発言し〔荻昌弘『大人のままごと』p.256(文藝春秋社1976年)〕、「食いしん坊」「食魔」という言葉を好んだ。「せっかく自由業なんだから、いろいろと視点を変えて住んでみるということも必要なんじゃないか」という理由から、東京大塚の自宅の他、自宅近くのマンションに映画の原稿専用の仕事部屋を持ち、さらに映画の雑誌とチラシだけを置く空間として家を借り、東京以外では長野県軽井沢町京都市大分県杵築に仕事場を持ち、一時期苗字にちなみ大分県荻町(現在は竹田市と合併)に別荘を所有し、日本各地の食文化と人情を研究していた〔『私の書斎〈4〉』p.31-50(竹井出版、1988年)〕。
長年日本レコード大賞の審査員を務めたが、関係者からの贈答品を受け取らないことで有名だった。また、試写会で見逃した作品を映画館で観るときは映画館の受付が顔パスで通してくれようとすることが多いが、「金を払って見ないと、1300円(当時)払ってその映画を見る人の気持はわからない」との理由から入場料を払って観ていた〔。
1980年から1983年まで横溝正史ミステリ大賞選考委員を務める。なお、1973年(昭和48年)の日活ロマンポルノ裁判では映倫側証人として東京地裁で証言している。1977年6月1日には渋谷公会堂で開かれた「革新自由連合マニフェスト77」に企画委員会メンバーとして携わった。
FM東京「オンキョー・ダイナミック・サウンド」などのラジオ番組のDJテレビの司会、旅番組のレポーターとしても活動。
かつて毎年4月21日に放送されていた放送広告の日(現・民放の日)特番では、毎年司会を務めていた。そのためか、CBC開局35周年特番でも司会を務めていた。
1982年(昭和57年)5月から1987年(昭和62年)9月までTBS系列『そこが知りたい』の初代司会者を務めた。
1988年(昭和63年)春から体調を崩し入院していたが、同年7月2日午前8時56分、肝不全により順天堂病院で死去。享年62。墓は西日暮里本行寺にある。 
没後、蔵書類は遺族から京都文化博物館に寄贈され、「荻昌弘文庫」として保存されている。
1991年水野晴郎により発起された日本映画批評家大賞には「ダイヤモンド大賞(荻昌弘賞)」が設けられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「荻昌弘」の詳細全文を読む




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