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丸谷才一 : ミニ英和和英辞書
丸谷才一[まるや さいいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 
: [さい]
 【名詞】 1. ability 2. gift 3. talent 4. aptitude 5. genius 
: [いち]
  1. (num) one 

丸谷才一 : ウィキペディア日本語版
丸谷才一[まるや さいいち]

丸谷 才一(まるや さいいち、1925年大正14年)8月27日 - 2012年平成24年)10月13日)は、日本小説家文芸評論家翻訳家随筆家
主な作品に『笹まくら』『年の残り』『たつた一人の反乱』『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』など。文字遣いは、1966年から74年までをのぞいて、歴史的仮名遣いを使用。日本文学の暗い私小説的な風土を批判し、軽妙で知的な作品を書くことを目指した〔「丸谷才一さん死去:深い教養とユーモア 「考える快楽」描き日本問う 」 『毎日新聞』 2012年10月14日朝刊。〕。小説の傍ら『忠臣蔵とは何か』『後鳥羽院』『文章読本』などの評論随筆も多数発表しており、また英文学者としてジョイスの『ユリシーズ』の翻訳などにも携わった。座談や講演も多く、「文壇三大音声」(〜おんじょう)の一人と自負していた〔他の二人は開高健井上光晴である(「昭和史における丸谷才一」菅野昭正編『書物の達人 丸谷才一』集英社新書 2014年pp.33-61)。〕。
== 経歴 ==
1925年山形県鶴岡市馬場町乙三番地にて、開業医・丸谷熊次郎(1956年死去、74歳)とその妻・千(せん。1978年死去、85歳)との間に次男として誕生。1932年、鶴岡市立朝暘第一尋常小学校に入学、1938年、同小学校を卒業、旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に入学、1943年、同中学校を卒業。中学在学中に勤労動員を体験して軍への嫌悪感を募らせる。当時の優等生は陸軍士官学校海軍兵学校に進むことを期待されていたにも関わらず、校長の勧めを無視して上京して東京の城北予備校に1年間通学(1943年4月から1944年春)。予備校時代に作家の安岡章太郎と知り合う。1944年旧制新潟高等学校文科乙類に入学。百目鬼恭三郎と知り合う。1学年上には編集者・作家の綱淵謙錠がいる。
1945年3月、召集(学徒動員)によって山形の歩兵第32連隊に入営し、8月15日は青森で迎え、9月に復学する。1947年3月、新潟高等学校 (旧制)を卒業。
1947年4月、東京大学文学部英文科に入学。中野好夫平井正穂のもとで主に現代イギリス文学を研究、ジェイムズ・ジョイスを知り大きな影響を受ける。1950年3月、卒業。卒業論文は「James Joyce」(英文)。4月、同大学院修士課程に進む。修士課程時代には桐朋学園で英語教師としても勤務しており、当時の教え子には小澤征爾高橋悠治がいた。1951年1月、東京都立北園高等学校講師(1954年3月まで)。
1952年1月、篠田一士菅野昭正川村二郎らとともに季刊同人雑誌『秩序』(白林社)を創刊。その第1号に短編小説「ゆがんだ太陽」を掲載した。また同誌2号から7号に『エホバの顔を避けて』を連載。4月、杉並区にある高千穂高等学校〔高千穂高等学校は1973年に休校。1990年、正式に廃校となった。〕の講師となる。5月、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を『不良少年』の邦題で翻訳、筑摩書房より刊行。以後英文学の翻訳を行う。
1953年9月、國學院大學の専任講師となる。1954年の春まで、同人雑誌「現代評論」の同人仲間であった山口瞳が同じ学校の学生として在籍していた〔丸谷才一『低空飛行』新潮文庫、1980年5月、山口瞳の解説より。〕。1954年4月、國學院大学助教授に昇進。ここで中野孝次らと知り合う。また、桐朋学園の非常勤講師となる。同年10月、東大英文科の同級生で演劇批評家の根村絢子と結婚。戸籍上は根村姓を継いだ。
1960年10月、初の長編小説『エホバの顔を避けて』を刊行。1964年、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』上・下を永川玲二高松雄一と共訳、刊行。1965年3月、國學院大學を退職。東京大学英文科非常勤講師として4月より2年間「ジェイムス・ジョイス」を講義。1966年7月、2つめの長編小説『笹まくら』、10月、評論集『梨のつぶて』刊行、新仮名遣いを使用する。1967年、『笹まくら』で河出文化賞を受賞。『鐘』刊行。1968年3月『年の残り』発表、7月に同作品で第59回芥川賞受賞。
1972年4月、長編小説第3作『たった一人の反乱』を刊行し話題となる。12月、同作品で第8回谷崎潤一郎賞受賞。以後ほぼ10年に1作のペースで長編小説を刊行する。1973年4月、評論『後鳥羽院』を刊行し翌年読売文学賞受賞。1974年7月、中編小説『横しぐれ』発表。これ以降の著作は歴史的仮名遣いを使用。1975年、「四畳半襖の下張事件」において、被告人野坂昭如の特別弁護人として出廷。
1982年8月、長編第4作『裏声で歌へ君が代』刊行。1984年4月から10月まで、東京大学文学部講師をつとめる。1985年、評論『忠臣蔵とは何か』を発表し、忠臣蔵における御霊信仰カーニバル性について国文学者諏訪春雄と論争を行う。同作品はこの年の野間文芸賞を受賞した。1988年、『樹影譚』で川端康成文学賞受賞。1991年種田山頭火を扱った『横しぐれ』の英訳(デニス・キーン訳、『''RAIN IN THE WIND''』)がイギリスのインディペンデント外国小説賞特別賞受賞。
1993年1月、長編第5作『女ざかり』がベストセラーとなり、翌年吉永小百合主演で映画化された。1995年、鶴岡市名誉市民に推戴される。1998年日本芸術院会員に選出。1999年、評論『新々百人一首』が刊行し翌年に大佛次郎賞受賞。
2003年11月、長編第6作『輝く日の宮』が第31回泉鏡花文学賞を受賞。2004年1月、2003年度朝日賞を受賞。2006年10月27日文化功労者に選ばれる。2010年2月、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像(改訳版)』が読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。2011年10月25日文化勲章の受章が決定。
2012年7月17日、山形県の名誉県民の称号が贈られる。10月7日、体調を崩し入院、同月13日に心不全のために死去〔丸谷才一さん死去 作家・評論家・英文学者、87歳 朝日新聞 2012年10月13日閲覧〕。。夫婦のお墓は鎌倉霊園にあり、墓碑銘岡野弘彦が生前に依頼されていた「玩亭墓」で、碑の裏には夫婦の略歴と「ぱさぱさと 股間につかふ 扇かな」(大岡信『新 折々の歌』所収)の句がある〔「怪談・俳諧・墓誌」(『書物の達人 丸谷才一』]pp.97-124)。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「丸谷才一」の詳細全文を読む




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