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糜芳 : ウィキペディア日本語版
糜芳[び ほう]

糜 芳(び ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の将軍、政治家。子方。本来の(靡)と読まれるという。徐州東海郡県(江蘇省連雲港市)の人。兄は糜竺。妹は(劉備の夫人)。劉備に仕えた後、に仕えた。
==生涯==
はじめは兄と共に陶謙に仕え、次いで劉備に仕えた。劉備が曹操に帰属した際に、彭城国の相に任命された事もあったが、劉備が曹操から離反するとそれに従った〔『三国志』蜀志 麋竺伝 竺弟芳為彭城相,皆去官,隨先主周旋。〕。
劉備が益州に入った後、荊州総督である関羽の配下として南郡に駐屯し、公安を守る士仁と共に荊州の防衛を任された。しかし関羽が彼らを軽んじていた事もあり、かねてから折り合いが悪かった。219年、関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行うだけで、全力で支援しようとしなかった。また、南郡城内で失火事件が起こり、軍器が些か焼失した事があった。これらの不始末を聞いた関羽は「帰ったら処罰してやる」と、糜芳を激しく咎めた。これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、内心不安になったといわれる。このことを聞いた孫権が糜芳に誘いをかけると、糜芳は孫権と内通するようになった。先に降伏した士仁が呂蒙と一緒にいるのを見ると、酒と肉を用意し、城門を開いて降伏した〔『三国志』蜀志 関羽伝〕。降伏、内通の経緯ついては諸説あり(上記は『三国志』蜀志関羽伝)、『三国志』の「呉書」には、内通したとの記述がない。また、降伏に関する経緯は若干記述が異なる。〔『三国志』呉志 虞翻伝 呂蒙圖取關羽,稱疾還建業,以翻兼知醫術,請以自隨,亦欲因此令翻得釋也。後蒙舉軍西上,南郡太守麋芳開城出降。〕〔『三国志』呉志 呂蒙伝 先遣蒙在前。蒙至尋陽,盡伏其精兵舳艫中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行,至羽所置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知。遂到南郡,士仁、麋芳皆降。〕。
これ以後、糜芳は孫権の将軍となり、呉に仕える事になった。『三国志』の「呉書」によると、孫権の命で賀斉配下の武将となり、呉からに寝返って反乱を起こした晋宗を討伐したという記述が見える〔『三国志』 呉志 賀斉伝 初,晉宗為戲口將,以眾叛如魏,還為蘄春太守,圖襲安樂,取其保質。權以為恥忿,因軍初罷,六月盛夏、出其不意,詔齊督麋芳、鮮于丹等襲蘄春,遂生虜宗。後四年卒,子達及弟景皆有令名,為佳將。〕。
また「虞翻伝」によると、糜芳は呉に仕えるようになってから、虞翻と船で擦れ違った事があった。糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「(旧主の劉備に対して)忠信(節義)を守れなかった者が、何によって主君に仕えるというのか。二城(南郡・公安)を任されながらそれを失った者が、将軍を名乗ってよいと思っておるのか」と罵倒した。糜芳は姿を見せず返答もしなかったが、急いで虞翻の船を避けさせた。
また、ある時に虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないという事があった。虞翻はまた腹を立てて「(城門を)閉めるべき時に開けて降伏をしたりしながら、開けておくべき時に門を閉ざしたりしている。物事の正しいやり方をわかっておるのか」と再び罵倒した。糜芳はこれに恥じ入り、門を開けさせた〔『三国志』 呉志 虞翻伝〕〔これに関して『三国志』 「呉志」で虞翻は性格に難があったと記されており、虞翻の性格上の問題の一つとして記されている可能性がある。『三国志』 呉志 虞翻伝 翻數犯顏諫爭,權不能悅。又性不協俗,多見謗毀,坐徙丹楊涇縣。『三国志』 呉志 諸葛瑾伝 虞翻以狂直流徙。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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