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稲葉正勝 : ミニ英和和英辞書
稲葉正勝[いなば まさかつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いね]
 【名詞】 1. rice-plant 
: [よう, は]
 【名詞】 1. leaf 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

稲葉正勝 : ウィキペディア日本語版
稲葉正勝[いなば まさかつ]

稲葉 正勝(いなば まさかつ)は、江戸時代前期の大名老中常陸国柿岡藩主、下野国真岡藩2代藩主、相模国小田原藩初代藩主。正成系稲葉家宗家2代。甥に堀田正盛
== 生涯 ==
母・春日局が3代将軍徳川家光乳母となったことから、乳兄弟として幼少時より家光に小姓として仕え、将来を期待された。
元和7年(1621年)、書院番頭に任じられる。元和9年(1623年)に年寄衆(老中)に任じられ、寛永元年(1624年)には常陸真壁郡に5000石を加増され、それまでの所領と合わせて柿岡藩1万石を領する大名に列する。同時に従五位下・丹後守に叙任した。寛永元年(1624年)、越前福井藩松平忠直の改易および松平忠昌の転封に際しての行動により、幕府より懲罰を受けた父の正成〔松平忠昌の御付家老〕を自領内にて預かる。名目上の扱いは謹慎処分であったが、正成は寛永4年(1627年)2月には正勝とは別に下野真岡藩2万石として復帰した。その後も父の遺領を相続して下野真岡藩4万石となるなど加増を重ね、転封し相模小田原藩8万5千石となる。寛永9年(1632年)には、肥後国熊本藩加藤忠広改易に際して熊本城接収の副使を務めている。
しかし幕政での激務が堪えたのか、寛永10年(1633年)の夏頃から吐血するなど体調を著しく悪化させ、翌寛永11年(1634年)に死去した。享年38。次男・正則が跡を継いだが未だ幼少であったため、母方の伯父の斎藤利宗、次いで甥の堀田正盛が後見人となった。
死の直前、徳川忠長に仕えていた弟・正利が忠長の改易に連座して配流処分にされることを知ると、死の床に伏していた正勝は最期の気力を振り絞って幕府に懇願し、縁戚に当たる細川忠利〔正勝の外祖父斎藤利三は、忠利の外祖父明智光秀の親族でその重臣であった。〕の熊本藩への流刑を求め、更に遺言で忠利にあてて50貫目を託し、正利が赦免されるまでの保護を依頼している〔『大日本近世資料』細川家史料「細川忠興書状」寛永11年3月5日・21日付。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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