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稲葉正則 : ミニ英和和英辞書
稲葉正則[いなば まさのり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いね]
 【名詞】 1. rice-plant 
: [よう, は]
 【名詞】 1. leaf 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
正則 : [せいそく]
  1. (adj-na,n,adj-no) correct 2. proper 3. formal 4. regular 5. systematic 6. normal 

稲葉正則 : ウィキペディア日本語版
稲葉正則[いなば まさのり]

稲葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代譜代大名老中大政参与相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成春日局の嫡孫。正成系稲葉家宗家3代。
== 生涯 ==
母は早世したため、祖母春日局に養育されていたが、寛永11年(1634年)に父が死去したため家督を相続した。幼少のため大伯父(春日局の兄)にあたる斎藤利宗の補佐を受けた。寛永15年(1638年)に元服、利宗の補佐は終わったが、以後は父方の従兄に当たる堀田正盛が後見人を務めた。
寛永17年(1640年)から翌18年(1641年)にかけて領内総検地を実施、正保4年(1647年)に人口調査のため人別改を行い、万治元年(1658年)から万治3年(1660年)にかけて定免法に切り替えて再び総検地を実施、藩政の基礎を築いた。また、鉄牛道機を招いて小田原紹太寺江戸弘福寺の開基となった。明暦元年(1655年)の朝鮮通信使の接待も請け負った。
春日局の孫ということもあり幕閣として重用され、明暦3年(1657年9月28日に老中となり、将軍の名代や代参を経て、翌万治元年7月12日から評定所へ出座、閏12月29日に月番と老中奉書加判の上意を受けて幕閣への参加を認められた。寛文3年(1663年)に1万石加増され、4代将軍徳川家綱文治政治を担うことになる。
寛文4年(1664年)から翌5年(1665年)の幕府から全国への領知判物領知朱印状領知目録の交付(寛文印知)では公家領を担当、寛文6年(1666年)に老中首座に昇格、同年に他の老中と共に諸国山川掟を発令した。同年に酒井忠清大老に就任、以後は酒井忠清・久世広之土屋数直板倉重矩らと共に政治を取り仕切り、全国の公共事業・流通政策を鉄牛や河村瑞賢を通して展開していった。狭山藩北条氏治の相続問題にも介入している。
延宝8年(1680年)に1万5000石を加増、合わせて大政参与に任命された。同年5月8日に家綱が亡くなり、家綱の弟綱吉が5代将軍に就任して忠清が12月9日に大老を解任されると、翌天和元年(1681年)3月から越後騒動の再審を開始、7月8日紅葉山の家綱の仏殿建立の奉行を務め、12月8日に大政参与を退いた。天和3年(1683年)閏5月27日隠居、家督を長男の正往に譲った。
元禄9年(1696年)、江戸で死去した。享年74。遺体は紹太寺に葬られた。遺領は正往が小田原藩10万2000石を相続、残りは他の息子たちに旗本領として分知された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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