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秋山真之 : ミニ英和和英辞書
秋山真之[あきやま さねゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [まこと, しん, ま]
  1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness
: [これ]
 (int,n) (uk) this

秋山真之 : ウィキペディア日本語版
秋山真之[あきやま さねゆき]

秋山 真之(あきやま さねゆき、、慶応4年3月20日1868年4月12日) - 大正7年(1918年2月4日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将位階勲等功級従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。
三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議員大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。
== 経歴 ==
松山城下の中徒町(現在の愛媛県松山市)に松山藩の下級武士・秋山久敬の5男として生まれる。母・貞は松山藩士山口家の娘。地元の漢学塾に学び、和歌なども習う。親友の正岡子規の上京に刺激され、愛媛県松山中学校(現在の松山東高校)を中学5年にて中退、明治16年(1883年)に将来の太政大臣を目指すために東京へ行き受験準備のために共立学校(現在の開成高校)などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学。
大学予備門では東京帝国大学進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし、明治19年(1886年)に海軍兵学校17期生として進学。明治23年(1890年)に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したオスマン帝国軍艦エルトゥールル」の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。明治25年(1892年)、海軍少尉日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には巡洋艦「和泉」分隊士、明治29年(1896年)年1月には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付になる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年11月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。
明治31年(1898年)に海軍の留学生派遣が再開されると派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れずにはじめは私費留学であった。1897年にアメリカへ留学した真之は、ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき米西戦争観戦武官として視察し報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(後に「極秘諜報第百十八号」と銘うたれる)を提出する。サンチャゴ・デ・キューバ海戦の一環としてアメリカ海軍が実施したキューバのサンチャゴ港閉塞作戦を見学しており、このときの経験と報告〔在米国海軍大尉秋山真之「サンチャゴ・ヂュ・クバ之役(極秘諜報第百十八号)」〕が日露戦争における旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている。翌 明治32年(1899年)末にイギリス駐在を命じられ、視察を行い翌年、8月に帰国。明治33年(1900年)には海軍省軍務局第1課員、常備艦隊参謀になり、明治34年(1901年)、海軍少佐。
明治35年(1902年)には海軍大学校の教官となる。明治36年(1903年)6月に宮内省御用掛・稲生真履の三女である季子と築地の水交社で結婚。対露開戦論者として湖月会のメンバーとなって日露開戦を積極的に推進した。翌明治37年(1904年)に海軍中佐第1艦隊参謀(後に先任参謀)。朝鮮半島を巡り日本とロシアとの関係が険悪化し、同年からの日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第1艦隊旗艦三笠」に乗艦する。ロシア海軍旅順艦隊(太平洋艦隊)撃滅と封鎖のための旅順口攻撃と旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。
明治38年(1905年)12月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第1艦隊の参謀長を経て大正元年(1912年12月1日からは軍令部第1班長(後の軍令部第1部長)に任ぜられる。明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。
大正3年(1914年)、軍艦建造を巡る疑獄事件であるシーメンス事件が起こる。事件は政府批判に発展し、また、事件に際しては秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた治罪法の問題が再燃し、衆議院議員の花井卓蔵が賛同者を集め、軍法会議の公開などを要求。同年1月に調査委員会が設置されると、その委員の一人に指名される。3月に第1次山本内閣が退陣し、第2次大隈内閣が発足すると、海軍大臣には八代六郎が任命され、秋山は軍務局長として八代を補佐し、軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する。11月に治罪法改正委員会が設置されると、花井卓蔵らと論争を行う。大正5年(1916年)2月には軍令部に転出したため、委員は鈴木貫太郎に引き継がれる。
軍務局長時代には、上海へも寄港する巡洋艦「音羽」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。小池張造らと同志を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。久原房之助など実業家に働きかける。明治44年(1911年)、辛亥革命で清朝が打倒され、中華民国が成立。大正4年(1915年)に袁世凱が皇帝に推戴されると、中国各地で反対運動が起こり、日本政府など諸外国も抗議。またこの頃、川島浪速大陸浪人参謀本部次長・田中義一らが主導した第二次満蒙独立運動に外務省政務局長になった小池とともに加わっている。その後、軍令部転出となったため、対中政策からは離れる。
大正5年(1916年)3月には、第一次世界大戦を視察するためにヨーロッパへ渡る。朝鮮半島からシベリア鉄道でロシア、フィンランドなど東欧などを視察。5月にはイギリスへ渡り、日本海海戦を観戦した英国海軍のペケナム中将、艦隊司令長官のジェリコ提督らに歓迎される。フランス、イタリアに滞在したのち、翌大正6年(1917年)9月にはアメリカへ渡り、10月に帰国。帰国後には第2艦隊水雷司令官になるが、病状悪化により間もなく辞職する。同年7月には海軍将官会議議員になるが、中将昇進と同時に待命となった。
大学校教官時代に佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘されて経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家川面凡児に師事して神道研究を行い、皇典研究会を設立した。新宗教皇道大本には海軍機関学校教官の浅野和三郎との縁(秋山と浅野の初対面は大本時代)で入信し、綾部参り等を行ったものの、目的は信仰ではなく神道研究だったとされる。大本側の資料によれば、大正5年12月14日に出口王仁三郎の招きで綾部に立ち寄り大本教主顧問となったが、大正6年5月に喧嘩別れした〔#神の罠157-158頁〕。
大正6年(1917年)5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の対潮閣(山下亀三郎別邸)にて死去した。死去直前に教育勅語般若心経を唱えていたという。享年49。
墓所は東京都港区青山墓地だったが、後に鎌倉霊園へ改葬。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「秋山真之」の詳細全文を読む




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