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神風特攻隊 : ミニ英和和英辞書
神風特攻隊[かみかぜ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かみ]
 【名詞】 1. god 
神風 : [かみかぜ]
 【名詞】 1. divine wind 2. Kamikaze 
: [ふう, かぜ]
  1. (adj-na,n,n-suf) method 2. manner 3. way 
特攻隊 : [とっこうたい]
 【名詞】 1. special attack unit 2. suicide squad 3. kamikaze unit 
: [たい]
 【名詞】 1. party 2. company 3. body (of troops) 4. corps

神風特攻隊 ( リダイレクト:神風特別攻撃隊 ) : ウィキペディア日本語版
神風特別攻撃隊[しんぷうとくべつこうげきたい]

神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、しんぷうとくべつこうげきたい)は、大日本帝国海軍航空機による特別攻撃隊である。
大東亜戦争太平洋戦争)の末期に資源・人材に困窮して追い詰められた大日本帝国海軍で、1944年10月20日大西瀧治郎海軍中将によって編成された艦船を目標とする航空機による特別攻撃隊であり、大戦末期に連合軍に対抗できる数少ない戦術となり、連合軍を苦しめた。1945年8月15日の終戦まで続けられた、最も有名な特別攻撃隊である。
「しんぷう」が正式な読み方であるが、訓読みの「かみかぜ」が定着する。神風の名称は、一航艦首席参謀猪口力平中佐が郷里の道場「神風(しんぷう)流」から取ったものである〔金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p52-53〕。「神風特攻隊」「神風」と略されるほか、アメリカなどでは特攻全般を含めて「カミカゼ」と称されることもある。
特攻全般については「特別攻撃隊」を参照。また、陸軍航空隊の特攻隊である万朶隊振武隊などとは戦史上区別される。
== 歴史 ==

=== 創設まで ===

後に神風特攻隊を創設する大西瀧治郎中将の下には、創設以前から特攻を求める意見が多数寄せられていた。
1943年(昭和18年)6月29日城英一郎大佐から敵艦船に対して特攻を行う「特殊航空隊」編成の構想が大西に上申されたが、大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答した〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁〕。城はマリアナ沖海戦が敗北に終わると、大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している〔デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁〕。
マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった〔秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁〕。さらに、252空司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え〔奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ45頁〕、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた〔金子敏夫『神風特攻の記録』26-27頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁〕。この頃すでに、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁〕。
1944年(昭和19年)10月5日、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁〕。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた〔金子敏夫『神風特攻の記録』p224〕。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」〔丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁〕「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した〔戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁〕。大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した〔戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁、森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫89頁〕。
1944年10月9日フィリピンに向けて出発した大西は、到着までに台湾・新竹で航空戦の様子を見学し、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話し、連合艦隊長官豊田副武大将にも「(単独飛行がやっとの練度の)現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しか無い。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語った。
フィリピンに到着すると、大西は前任者の第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁〕。
寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した〔金子敏夫『神風特攻の記録』63頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコp197-199〕。
同年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク空軍基地の761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は到着が遅れたため、大西が自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり面会は叶わなかった〔戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111〕。しかし、小田原が代わりに山本と面会し、特攻決行の同意を得た〔金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫37-41頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「神風特別攻撃隊」の詳細全文を読む




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