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神戸友盛 : ミニ英和和英辞書
神戸友盛[こうべ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [とも]
 【名詞】 1. friend 2. companion 3. pal 

神戸友盛 ( リダイレクト:神戸具盛 (7代目当主) ) : ウィキペディア日本語版
神戸具盛 (7代目当主)[かんべ とももり]

神戸 具盛(かんべ とももり、生年不詳 - 慶長5年10月26日1600年12月1日))は、戦国時代安土桃山時代武将大名伊勢国人領主である神戸氏第7代当主。第5代当主神戸長盛(ながもり)の子。第6代当主神戸利盛(としもり)の弟。妻は蒲生定秀の娘。姉は織田信包の室。養子に信孝織田信長の子)、林与五。通称は蔵人大夫。官位は下総守。
祖父である同名の神戸具盛(楽三)と混同されるため、神戸友盛と表記される事も多い。
== 生涯 ==
次男であった為仏門に入っていたが、永禄2年(1559年)に兄・利盛が23歳の若さで急逝したため、還俗して家督を継ぐ。
それまで神戸氏は、祖父の実家である北畠氏に属しており、父の長盛や兄の利盛は勢力拡大のため北伊勢や南近江にたびたび出征しており、元々の本家筋に当たる関氏や南近江の六角氏とは不和になっていた。具盛は当主となるとすぐに関氏当主・関盛信との関係を修復し、さらに盛信と共に六角氏重臣の日野城主・蒲生定秀の娘を娶り、その力を背景にしつつ戦争で疲弊した神戸氏の勢力の回復を図った。
前代までの拡張政策の反動から、具盛の家督継承直後から神戸氏は近隣勢力の侵攻に何度も遭ったがよく戦った。北伊勢の雄の一家である長野氏が神戸氏の盟友である赤堀氏浜田氏)と合戦を起こすと(浜田合戦)、具盛は赤堀氏を支援し自ら援軍を率いて武名を上げた。
永禄10年(1567年)、尾張国織田信長による北伊勢侵攻が開始されると、具盛は重臣の山路弾正忠山路正国長尾一勝の兄)らとよく防ぎ、美濃国に不穏な動きのある織田軍を撤退させた。しかし永禄11年(1568年)再度信長軍が侵攻してくると、抗戦の利あらずとして信長の三男・信孝養子として迎えることで和睦した。
その後、織田家の部将として転戦し、六角氏攻略の際(観音寺城の戦い)には、義兄である蒲生賢秀を降伏させるなど、手柄を立てる。
しかし養子である信孝を冷遇していたため信長の怒りを買い、元亀2年(1571年)1月、具盛は蒲生賢秀に預けられ近江国日野城に幽閉を余儀なくされた。神戸氏の家督は信孝が継承した。そしてそれに抗議した山路弾正忠をはじめ、一族や家臣の多くは殺害された。
天正10年(1582年)、信孝が四国征伐の総大将として大坂へ出征すると、具盛は許されて神戸城近くの澤城を隠居所とした。
天正11年(1583年)、羽柴秀吉により信孝が切腹させられると、織田信雄の家老である林与五郎が神戸城主となった。具盛は与五郎の嫡子・十蔵に信孝の室(具盛の娘)を嫁がせ、神戸氏を継承させた。
その後、神戸与五郎らが蒲生氏郷らの羽柴軍に敗れ美濃へ落ち延びると、具盛は織田信包を頼り安濃津に逃れ、同地で死去したといわれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「神戸具盛 (7代目当主)」の詳細全文を読む




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