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登山における最高到達高度の記録 : ミニ英和和英辞書
登山における最高到達高度の記録[とざん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

登山 : [とざん]
  1. (n,vs) mountain climbing 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [さい]
  1. (n,pref) the most 2. the extreme
最高 : [さいこう]
  1. (adj-na,n) highest 2. supreme 3. the most 
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
到達 : [とうたつ]
  1. (n,vs) reaching 2. attaining 3. arrival 
: [たち, たっし]
  1. (n-suf) plural suffix 
高度 : [こうど]
 1. altitude 2. height 3. advanced 4. high-grade 5. strong 
: [ど]
  1. (n,n-suf) (1) degree (angle, temperature, scale,  2. (2) counter for occurrences 3. times 4. (3) strength (of alcohol) 5. (4) (uk) (pref) very 6. totally 
: [き]
 (n,n-suf) chronicle
記録 : [きろく]
  1. (n,vs) record 2. minutes 3. document 

登山における最高到達高度の記録 : ウィキペディア日本語版
登山における最高到達高度の記録[とざん]
本項目では登山における最高到達高度の記録について述べる。
ここでは2つの記録を扱う。到達高度の記録は、人類が到達した最も高い地点の標高を指し、そこが山頂かどうかは問わない。一方で、登頂高度の記録は、登頂された最も高い山の標高を指す。
どちらの高度記録も1953年にエベレストが初登頂されるまで更新され続けた。
== 19世紀以前 ==
870年頃に文人都良香が書いた『富士山記』に、富士山頂上についての最古の記録があり、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材したものとみられている〔山と溪谷社「目で見る日本登山史」の日本登山史年表 、2005年、ISBN 4635178145〕〔菊地俊朗 「ウェストンが来る前から、山はそこにあった」 信濃毎日新聞社〕。それ以前の663年に役小角が富士山に登頂したという伝説がある。
905年にアブー・ドラフ・カズラジがイランのダマーヴァンド山(5610m)に登頂した。ただしこれ以前にも登頂されていた可能性がある〔。
ダマーヴァンド山より低いが、1289年にメキシコのポポカテペトル山(5426m)に現地の部族が登頂したと記録されている。230年後の1519年にエルナン・コルテスの部下、ディエゴ・デ・オルダスら3人がヨーロッパ人として初めてポポカテペトル山に登頂した〔。これはかつて登頂高度記録と考えられていた。ヨーロッパ人がさらに高い山に登頂するのは300年以上経ってからである。
ヨーロッパ人のヒマラヤ探検は19世紀中頃から本格的に始まった。その時代にヒマラヤを登ったのはの測量技師だった。1850年代から1860年代に、彼らは測量のために、6100m(20000フィート)以上の山を数十峰登り、6400m(21000フィート)以上の山を数峰登った。そのときに人類が到達していなかった最高点まで登ったと主張されることもある。
それらの主張の多くは今では間違いと分かっている。それ以前に、インカの人々が宗教上の理由からアンデスの高峰に登っていたのである。
アンデスにある標高6739mの山、ユーヤイヤコの山頂からは、3体の子供のミイラが発見された〔『世界の山岳大百科』山と渓谷社 ISBN 4635588068〕。1500年頃に生贄として捧げられたとみられる〔Sale and Cleare, p.21〕。
アンデス最高峰のアコンカグア(6962m)でも約6900mの頂上稜線でグアナコの骨が見つかっており、インカ人がそこまで登っていたことが示唆されている。先コロンブス時代にアンデスの最高峰が登頂されていた可能性は排除できない。
その一方でヒマラヤでは、ヤクが6100m(21000フィート)の高さまで登っていることが報告されており、夏には雪線が6500mの高さまで達することがある。おそらく現地の人々は獲物を探しにそのくらいの高度まで達することもあっただろうし、通商ルートを探すためにより高く登ることもあっただろう。しかし、彼らはそこで生活していた訳ではなく、ヨーロッパ人が到達する前にヒマラヤの頂に登ろうと試みた証拠はない〔Sale and Cleare, pp. 21-22〕。
初期の最高到達高度の記録には、現地の地理に関する知識の不足と、不完全な測量のせいで不明瞭なところがある。初めに主張されていた標高の多くは、後の調査で改定されている。1862年にカラシーという名前のインド人測量助手が標高7000mを越えるに登頂したと記録されていたが、後の調査で6111mに改定された〔Sale and Cleare, p. 22〕。3年後に大三角測量のウィリアム・ジョンソンが中国に不法入国し、崑崙山脈の7280mの山に登頂したと主張したが、後に6710mと分かった〔Sale and Cleare, p. 22〕。
== 7000mを越える ==
測量技師ではなく純粋な登山家として初めてヒマラヤに登ったのは、イギリスの弁護士ウィリアム・グラハムとスイスのホテル経営者エミール・ボス、スイスの山岳ガイドのウルリヒ・カウフマンである。彼らは1883年にヒマラヤの様々な地域を登った。数ある中でも特に挙げられるのは、ガルワール・ヒマラヤのの標高6900m地点に到達、(6864m)登頂、カンチェンジュンガの南にある東峰(7338m)の山頂10メートル下まで到達、などである。しかしその登頂の多くは疑われている。彼らが嘘をついたというわけではなく、地図の不明瞭さによって、実際にどの山に登ったのかが不明確になり、科学的な計測よりも希望的観測によって標高を推定していた、とされる〔Sale and Cleare, p. 23〕。チャンガバンの記述は実際の山と矛盾しており、すぐに疑われて1955年までに真面目に受け取られることはなくなった〔 Reprinted 1987 by Diadem Books, ISBN 978-0-906371-91-6〕。
しかしカブルー東峰についてはすぐに却下されることはなかった。特に矛盾点はなく、1994年のアンスワースの記事や2009年のブレイザーの記事〔Willy Blaser and Glyn Hughes, Kabru 1883, a reassessment , ''The Alpine Journal'' 2009, p. 209〕ではグラハムの登頂を疑うところはないとしている。もし彼らが実際にカブルーに登っていたとすると、その後26年間破られなかった高度記録を打ち立てたことになる〔Unsworth (1994) p. 235〕。
9年後の1892年に、別の到達高度記録がマーティン・コンウェイによって主張された。マティアス・ツルブリッゲンチャールズ・グランヴィル・ブルースと共に、コンウェイはを登り、「パイオニア・ピーク」と名付けた衛星峰に登頂した〔フィリップ・パーカー編『ヒマラヤ探検史』(東洋書林,2015年)ISBN 4887218206〕。気圧計は22600フィート(6900m)を示しており、コンウェイは23000フィート(7000m 以上)に四捨五入して切り上げた〔。しかしこのピークはその後の測量によると6499mにすぎなかった〔。
1897年にツルブリッゲンはガイドとしてアコンカグア(6962m)の初登頂に成功した。顧客が途中で登れなくなったので頂上では単独だった〔。グラハムたちの登山を除くと、当時の最高地点に到達したことになる〔Sale and Cleare, p. 24〕。
7000mの壁が破られるにはあと数年を要した。1905年7月にトム・ロングスタッフとガイドのブロシュレル兄弟、6人の現地人ポーターは、(7694m)に挑み〔T.G. Longstaff, An attempt to climb Gurla Mandhata , Chapter 8 in ''Western Tibet and the British borderland'', Edward Arnold Publisher, London 1906.〕、アコンカグアより高い7000mから7300m〔Mason, p. 115〕の地点まで到達した。
1907年にロングスタッフとブロシュレル兄弟はヒマラヤに戻り、6月12日にグルカ兵のカルビル・ブラトキと共に(7120m)に登頂した〔。トリスルは疑惑なしで登頂された初めての7000m峰となった〔。
数ヵ月後の1907年10月20日に、ノルウェーのカール・ルーベンソンとモンラード・アースは、7338mのカブルー東峰の山頂から50メートル以内まで達した。グラハムたちが24年前に実際にカブルーに登頂していたと、ルーベンソンが後に信用したことは注目に値する〔。
疑いのない到達高度記録は、1909年にアブルッツィ公によって更新された。K2遠征に失敗した後、アブルッツィ公は(7665m)に転進し、山頂から150メートル下の7500m地点まで到達した。しかし濃霧のためそれ以上は進めなかった〔。
疑いのない登頂記録は、1911年6月14日に8メートル更新された。スコットランドの化学者・探検家・登山家のアレクサンダー・ケラスとシェルパのソニーと「トゥニーの兄弟」は標高7128mのに登頂した。しかし20世紀末までこの山の標高は7065mだと考えられており、当時は記録を打ち立てたと認識されていなかった〔。
== イギリスのエベレスト遠征 ==
到達高度記録は、イギリスのエベレスト遠征まで破られることはなく、その後、エベレスト以外の山に記録を譲ることはなかった。1922年のエベレスト遠征ではジョージ・マロリーハワード・サマヴェルエドワード・ノートンが5月20日に人類史上初めて8000mを越え、無酸素で8225mに達した〔池田常道『現代ヒマラヤ登攀史』(山と渓谷社,2015年)〕。3日後にジョージ・フィンチとジェフリー・ブルースは酸素ボンベを使って8326mまで到達したが〔、酸素ボンベの不調により引き返した。
1924年の遠征で最高到達記録は再び破られた。6月4日にノートンは動けなくなったサマヴェルを残し、一人で酸素ボンベを使わずに北壁をトラバースしてグレート・クーロワールの8570mまで達した。数日後にマロリーとアンドリュー・アーヴィンが酸素ボンベを使って頂上へ向かったが、そのまま行方不明となった。どこまで登ったのかは謎のままである。ノートンの記録は28年間破られず、また無酸素という条件では54年間破られなかった〔〔『孤独の山』(山と渓谷社,1998年) 解説「ヒマラヤクライミングの進展」 〕。
イギリスはその後もエベレストに遠征隊を送り、1933年にはローレンス・ウェイジャーパーシー・ウィン・ハリスフランク・スマイスが無酸素でノートンと同じ高度まで到達したが、それを超えることは出来なかった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「登山における最高到達高度の記録」の詳細全文を読む




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