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源公暁 : ミニ英和和英辞書
源公暁[みなもと, げん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなもと, げん]
 【名詞】 1. source 2. origin 
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
: [あかつき]
 【名詞】 1. dawn 2. daybreak 3. in the event of 

源公暁 ( リダイレクト:公暁 ) : ウィキペディア日本語版
公暁[くぎょう]
公暁(くぎょう、こうきょう、正治2年(1200年) - 建保7年1月27日1219年2月13日))は、鎌倉時代前期の僧侶。鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(尊卑分脈等)または三男(鶴岡八幡宮寺社務職次第等)。
母は吾妻鏡によれば足助重長(賀茂重長)の娘(源為朝の孫娘)、尊卑分脈等によれば一幡の母と同じく比企能員の娘、ある源氏系図(縣篤岐本『源氏系図』)によれば三浦義澄の娘。一幡とは異母兄弟または同母兄弟、栄実禅暁は異母弟、竹御所は異母妹にあたる。幼名善哉(ぜんざい)。
第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺したが、自身も直後に討ち取られた(なお、公暁は実朝の猶子であったため、義理の父親を殺害したことになる)。
名前の読みは「くぎょう」とされてきたが、近年は「こうきょう」である可能性が高いとされている〔舘隆志「公暁の法名について」(『印度学佛教学研究』61-1、2012年)では、公顕―公胤―公暁の系統で、公顕と公胤が鎌倉期の史料において、それぞれ「コウケン」「コウイン」と漢音で発音されており、実際に江戸期以前の史料において公暁を「コウキョウ」と発音していることから、「クギョウ」ではなく、「コウキョウ」と漢音で発音されていた可能性が高いと指摘している。 『承久軍物語』では公暁は「こうげう」と書かれ、『承久兵乱記』では公暁は「こうきやう」と書かれている。〕。
== 生涯 ==

=== 出家 ===
父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の比企能員の変によって鎌倉を追放され、翌年善哉が5歳の時に北条氏の刺客によって暗殺された。建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行う。10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝猶子となった。建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮別当定暁の下で出家公暁法名を受け、翌日には受戒のため上洛する。園城寺において公胤の門弟として入室し、貞暁(おそらくは定暁と同人)の受法の弟子となる。建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。同年10月11日からは実朝の命により裏山で千日参篭をおこなう。翌年建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下ろす事もしないので人はこれを怪しんだという。また伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を送った事が将軍御所で披露されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「公暁」の詳細全文を読む




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