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渡来人 : ミニ英和和英辞書
渡来人[とらいじん]
(n) people from overseas, especially from China and Korea, who settled in early Japan and introduced Continental culture to the Japanese
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渡来 : [とらい]
  1. (n,vs) visit 2. introduction 3. importation 
渡来人 : [とらいじん]
 (n) people from overseas, especially from China and Korea, who settled in early Japan and introduced Continental culture to the Japanese
: [らい]
 【名詞】 1. since (last month) 2. for (10 days) 3. next (year) 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
渡来人 : ウィキペディア日本語版
渡来人[とらいじん]
渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。
渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域 - 山東半島揚子江流域、満洲 - 朝鮮半島など様々である。
== 概説 ==
揚子江流域などから伝わった(水稲)作に始まり〔水稲には中国大陸から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から朝鮮半島南部を経由して日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。国立歴史民族博物館研究プロジェクトによると弥生時代の開始年代は紀元前10世紀であり、日本における水稲稲作の開始時期は朝鮮半島に先行する。〕、後には漢字仏教寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化政権形成に大きな役割を演じたと考えられている〔この時代の日本は、『漢書』には倭人が季節ごとに楽浪郡使者を遣わしてくるとあり(『漢書』地理志 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」)、『後漢書』には倭国帥升が107年の入貢の際に160人もの人(生口奴隷のこと)を送ったと記録されている(『後漢書』 安帝紀 永初元年(107年)「倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)。また卑弥呼台与(壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも人を送っていたことが見受けられる。また、『三国史記新羅本紀新羅の4代王「脱解尼師今(だっかい・にしきん、生没年不詳)」は倭人である(「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里。」)と伝えている。〕。
古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと考えられている。彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約6000年前から存在。)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。彼らは弥生人と呼ばれることが多い。
4世紀末 - 6世紀古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者亡命者として中国大陸や朝鮮半島から人々が渡来した。4世紀後半から5世紀にかけて、ヤマト王権は属国の百済と連携しつつ朝鮮半島南部の領土支配権維持のために繰り返し出兵するなど大陸で活動しており、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記録されている。大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した〔5世紀後半~6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を『日本書紀』では「古渡才伎(こわたりのてひと)」に対して「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいる。『日本書紀』「雄略紀」によれば今来才伎は百済から献上された人々である(雄略天皇七年「集聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。〕者がいた。また、日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあり、後の狗邪韓国任那に該当する地域では紀元前4 - 3世紀になると、それ以前の九州北部との交易から更に進んで朝鮮半島南部への移住・入植とそれに伴う弥生土器の急激な増加が確認されている、また光州木浦近辺などに分布する前方後円墳はヤマト王権に関係する遺跡とされ、現地で製作されたと考えられる円筒埴輪ベンガラ(酸化鉄)を塗った横穴式石室が確認されている(韓国調査報告 )。墳墓埋葬された人物の身元については諸説ある。
ヤマト王権に仕えた渡来人としては、秦氏東漢氏、西文氏(かわちのふみうじ) が代表的であり、他に渡来人系の人物として鞍部村主司馬達等(止)(大唐漢人、継体朝敏達朝)、鞍部多須奈(用明朝)、鞍作止利仏師(推古朝)、高向玄理(高向氏)、南淵請安(南淵漢人)、(日文、新漢人)、鑑真などがいる。朝鮮半島ではなく中国大陸にルーツを持つ人物が多い。
2世紀 - 7世紀頃において、日本から主に朝鮮半島に移住した倭人(倭族・大和民族)であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されている。
また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王王子禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)氏姓を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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