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法正 : ミニ英和和英辞書
法正[ほう せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

法正 : ウィキペディア日本語版
法正[ほう せい]

法 正(ほう せい、176年 - 220年)は、中国後漢末期の参謀・政治家。劉備に仕えて活躍した謀臣。孝直司隷扶風郡郿県(陝西省眉県)の人。曾祖父(または高祖父)は法雄〔『後漢書』法雄伝によると、法雄は襄王の末裔と称していたと記されている。その主張が正しければ、法正もまた襄王の末裔ということになる。〕(後漢の南郡太守)。祖父は法真。父は法衍。子は法邈。
==生涯==
建安元年(196年)、飢饉に遭ったため同郷の孟達と共に益州劉璋に身を寄せた。劉璋の下では新都県令や軍議校尉に任じられたが、あまり重用されることはなかった。
その後、かねてから「劉璋では大事をなせない」と考えていた法正は、親友の張松と共に劉備の益州攻略に協力することにした。法正は張松と共に劉璋に進言し、曹操と断交させ劉備と盟約を結ばせた。さらに張魯の脅威を利用して劉璋を再び動かし、劉備の下に使者として赴き、密かに自身や張松と協力して、劉備に益州へ入るよう勧めた。個人的に親しかったが劉備への仕官を求めてきた際には、龐統と共にこれを推挙している(『蜀書』彭羕伝)。その後、鄭度が劉璋に対し焦土作戦を進言したと聞いた劉備が、どう対処すべきかこれを法正に相談すると、法正は劉璋にはその作戦が実行できないと予測し、降伏を勧告する手紙を劉璋に送った。同19年(214年)に成都が包囲されると、劉璋はまもなく降伏した。
劉備が益州の支配に成功すると、その功績により蜀郡太守〔『蜀書』先主伝の引く『三輔決録注』によると、劉備が劉璋にとって代わった際に射堅(皇甫嵩の娘婿である射援の兄)が広漢・蜀郡太守に任命されたとある。〕・揚武将軍に任じられ、中央の政治に諸葛亮と共にあたるとともに〔諸葛亮と法正は、劉巴伊籍李厳と共に『蜀科』を起草している(『蜀書』伊籍伝)。〕、劉備の策謀相談役となった(『蜀書』先主伝)。元の蜀郡太守であった許靖は、劉璋が敗北しそうになると劉備への投降を図ったことから、劉備に疎まれていた。しかし名声の高い人物であったため、法正はその虚名〔法正は許靖を虚名のみの人物として劉備に語った。〕を利用するよう勧めた。
諸葛亮と法正は性向が異なっていたが(『蜀書』法正伝)、公の立場に立って互いに認め合っていた。また、諸葛亮は常に法正の智術を高く買っていたため、法正の蜀郡太守としての不公正な振る舞いも容認した〔法正は蜀郡太守に着任すると、僅かな恨みにも必ず報復し、自分を非難した者数人を勝手に殺害した。このため、ある人が諸葛亮にそれを告げると、諸葛亮は「わが君の今があるのは法正のお蔭である。その功績を考えると処罰することはできない」と咎めなかったという。法正が漢中で軍務に従事した際は、楊洪が太守を代行している。〕。益州の内、かつて張魯が治めていた漢中は曹操の支配下にあり、夏侯淵張郃が駐屯していた。同22年(217年)、曹操軍の内情を分析した法正は劉備に漢中侵攻を勧め、自身も軍師として従軍した。劉備の下で適切な進言を行ないつつ〔漢中争奪戦の際、形勢不利だったにもかかわらず、劉備が癇癪を起こして退却しようとしない事があった。その際、流れ矢が劉備の周辺に降り注いだが、他の者は恐れて退却を進言出来なかった。このため、法正が黙って劉備の前に立ち「孝直、矢を避けよ」と言う劉備に対し「殿自ら矢に身を晒しておられるのですから、私のようなつまらない男なら当たり前の事でしょう」と反論したため、劉備はようやく退却した。〕、同24年(219年)の定軍山の戦いでも軍監として策を献じ、黄忠に命じて夏侯淵を斬らせるなど見事勝利に導いている。法正の献策を聞き知った曹操は「劉備があのような策を考え付く筈がない。誰かに教えられたに違いないと思っていた」と語ったという。また、「わしは有能な人材をほぼ全て集めたが、なぜ法正のみ手に入れられなかったのだろうか」とも述べた〔『華陽国志』に記載。〕。
その後、劉備が遠征してきた曹操を退け、漢中を制覇し漢中王を称すると、尚書令・護軍将軍に任じられたが、翌25年(220年)に病死した。劉備は何日間も彼を悼み、翼侯という諡号を諡った〔劉備から諡号を与えられたのは法正だけである(『蜀書』先主伝)。〕。死後、子が後を継いで関内侯となり、後に奉車都尉・漢陽太守に昇進した。
章武2年(222年)、夷陵の戦いで劉備が大敗した際、諸葛亮は「法正殿が生きていれば、劉備殿の東征を止められただろう。もし止められなくとも、今回のような大敗はしなかっただろう」〔原文は「法孝直若在、則能主上制、令不東行。就復東行、必不傾危矣」〕と嘆いている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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