翻訳と辞書
Words near each other
・ 楊毓シュン
・ 楊毓珣
・ 楊氏県
・ 楊永明
・ 楊永泰
・ 楊沂孫
・ 楊泰
・ 楊洋
・ 楊洋 (俳優)
・ 楊津
楊洪
・ 楊洪修
・ 楊洲周延
・ 楊浦
・ 楊浦区
・ 楊海英
・ 楊淑君
・ 楊淑美
・ 楊深秀
・ 楊済


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

楊洪 : ミニ英和和英辞書
楊洪[よう こう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう, やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim

楊洪 : ウィキペディア日本語版
楊洪[よう こう]
楊 洪(よう こう、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は季休(ききゅう)。犍為郡武陽県の人。
== 経歴 ==
最初は劉璋に仕え、諸郡の官吏を歴任した。劉備益州平定後、犍為太守となった李厳により功曹に任命される。李厳が郡役所を移転したいとの意向を示すと、これに反対している。後に李厳の推薦により、蜀郡従事に任命された。劉備の命令で人員の徴発を命じられた時は、諸葛亮に相談を持ちかけられ、その事務処理能力を高く評価された。また、蜀郡太守代行となり、まもなく正式な蜀郡太守となった。後に益州治中従事に転任した。
夷陵の戦いでの敗戦後、劉備は白帝城において重病となり、諸葛亮も見舞いのため成都を留守にしていた。この報を聞いた黄元が謀反を起こすと、留守を守る太子劉禅に黄元討伐を進言し、適切な助言を行い、黄元を滅亡させた。
劉禅即位後、223年関内侯に封じられ、蜀郡太守・忠節将軍となった。のちに、蜀郡太守のままで越騎校尉になった。
227年、諸葛亮から留府長史に張裔を任用したいとの相談を受けたが、これに異を唱え向朗を推薦した。しかしこれより以前、張裔の子の行為を処罰していたこともあったため、張裔に逆恨みされることになった。後に張裔が物議を醸すと、諸葛亮は楊洪が正しかったことを悟ったという。
228年、在任中に亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「楊洪」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.