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永井久一郎 : ミニ英和和英辞書
永井久一郎[ながい きゅういちろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [いち]
  1. (num) one 

永井久一郎 : ウィキペディア日本語版
永井久一郎[ながい きゅういちろう]

永井 久一郎(ながい きゅういちろう、嘉永5年8月2日(1852年9月15日) - 大正2年(1913年1月2日)は、日本漢詩人官僚文部省内務省帝国大学などに勤め、のち日本郵船に転じた。正四位。名は匡温(まさはる)また温、字は伯良・耐甫、号は禾原(かげん)・来青。通称、久一郎。
永井荷風の父である。
== 生涯 ==
帯刀を許された豪農永井家に生まれた〔永井荷風著『下谷叢話』219頁〕。尾張藩に仕え、儒学俳諧茶道に通じる子孫が多かったという。父は鳴尾永井家の11代目・永井匡威(まさたけ)。桓武平氏良兼流長田氏庶家である永井氏の傍系で、親致を祖とする「鳴尾永井氏」の後裔である。久一郎の詩集『来青閣集』によれば、鳴尾の永井氏は、永井直勝の庶子・永井正直に始まっている〔始祖諱正直。称久右衞門。常陸国笠間城主。後下総国古河城主永井右近大夫直勝公庶子。有故長于尾張国知多郡板山村外家。慶長初年移住愛知郡星崎荘地村。数年之後相地于荘内荒井村構宅。即今鳴尾也。後人修葺。到今尚存。〕。
初め知多郡大高村(現、名古屋市緑区)長寿寺の鷲巣上人に学び、12歳の頃から漢詩を作った。次いで尾張藩藩儒鷲津毅堂の塾生となって儒学を修め、また漢詩を森春濤に学んだ。1868年、新政府に招かれて京都へ赴く毅堂に従い、翌年の東京奠都ののちは、師とともに駿河台さいかち坂の官舎に住んだ。この東京遊学の前、家督を次弟永井冬季三郎に譲っている。名古屋藩の貢進生となって大学南校箕作麟祥の塾、慶應義塾に学び、翌年藩命によりアメリカに留学し、英語とラテン語を修めた。
1873年(21歳)、帰国し、翌年から、工部省二等少師、文部省九等出仕、同医務局勤務、そして1875年、書籍館兼博物館勤務、八等出仕博物館書籍館長補としてそれらの創設に努めたのち、1877年、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)三等教諭兼幹事。この年、師毅堂の二女・恒を妻とし、東京市小石川区金富町(現、文京区春日2丁目)の家に住んだ。襟川楼または来青閣を称した。
1879年内務省衛生局御用掛、翌年衛生局統計課長、1884年、日本代表としてロンドンの万国衛生博覧会に臨んでのちヨーロッパを視察し、翌年帰国後、衛生局第3部長。1886年、帝国大学書記官。並行して共立女子職業学校(現、共立女子大学)の創立に関わり、校長代理や監事役を務めた。1889年、文部大臣の首席秘書官、翌年文部省会計局長兼参事官。1893年、文部書記官高等官三等。この年、金富町の邸を売り、麹町区内の借家へ移った。
1897年(45歳)、文部省を辞し、西園寺公望伊藤博文加藤高明らの斡旋で日本郵船上海支店長となり、単身赴任した。夏に家族が訪れた。上海在勤中は、在官中疎遠にした漢詩に再び打ち込み、彼の地の詩人等と親交した。1900年横浜支店長に転じるときの別離の宴は盛大で、餞けの詩は、40余人の182首に及んだという。
この1900年の秋、牛込区大久保余丁町(現、新宿区余丁町)に家を構え、再び来青閣と称して屋内を中国風に設えた。
1911年(59歳)、退職し、漢詩に徹したかたわら、翌年『維新史料編纂会委員』を引き受けた。
1912年12月30日、盆栽を雪から守ろうと庭に降りて脳溢血で卒倒し、年を越した1913年1月2日に没した。故人は宗教を持たなかったが、葬儀は牧師によって行われ、雑司ヶ谷墓地に葬られた。1878年に夭折した長女のために、久一郎が構えた墓所である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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