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楊 杰(よう けつ)は、中華民国の軍人・外交官・政治家。ペー族(白族)。雲南派出身の軍人で、後に国民革命軍の北伐で要職を務め、蒋介石の腹心と目されるようになった。しかし晩年は蒋から離れ、国共内戦に反対している。字は耿光。 == 事跡 == === 雲南派から国民軍へ === 1900年(光緒26年)、大理数文書院に入学し、5年後に卒業した。その後、雲南陸軍講武堂に入学し、さらに保定北洋軍官学堂に転入、軍事を学んでいる。1911年(宣統3年)春、日本へ留学し、陸軍士官学校第10期砲兵科で学んだ。このときに中国同盟会に加入している。同年の武昌起義(辛亥革命)勃発を受けていったん帰国し、武昌で革命派の北伐聯軍総務部次長を務めた。まもなく日本に戻って復学し、1913年に卒業した。 帰国後の楊杰は、貴州都督を務めていた雲南派指導者・唐継尭に属し、貴州武威軍歩兵第10団団長に任ぜられる。以後、貴州騎兵第1団団長、滇軍第9旅旅長、重慶衛戌司令官兼四川省政務庁庁長などを歴任した。1915年(民国4年)12月、護国戦争が勃発すると、唐率いる護国軍第3軍第2梯団第5混成支隊長に任ぜられ、後に第4軍参謀長兼第1縦隊司令として四川省東部へ出撃している。護国戦争終結後、陸軍中将位を授与された。 1917年(民国6年)、楊杰は一度は北京政府で職に就いたが、まもなく昆明に戻って唐敬尭に再び属する。靖国聯軍第4軍参謀長、靖国軍中央軍総指揮兼瀘州衛戌司令、靖国聯軍高級顧問、雲南陸軍講武学校(講武堂の後身)教官を歴任した。1920年、再び日本に留学して陸軍大学校で学び、1923年に卒業した。翌年に帰国すると、奉天派指導者・張作霖の下に向かい、上校参謀に任ぜられる。同年冬に馮玉祥が国民軍を結成すると、楊はその下に転じて孫岳率いる国民軍第3軍で参謀長に任ぜられた。1925年(民国14年)9月、国民軍前敵指揮官兼河南軍官教育団教育長となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊杰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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