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根本健 : ミニ英和和英辞書
根本健[ねもと けん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こん, ね]
 【名詞】 1. root 
根本 : [ねもと]
 【名詞】 1. root 2. source 3. origin 4. foundation 5. base 6. principle
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [けん]
 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness 

根本健 : ウィキペディア日本語版
根本健[ねもと けん]

根本 健(ねもと けん、1948年 - )は、元GPライダー、雑誌『ライダースクラブ』(枻出版社)元編集長である〔『グランプリを走りたい』「カバー - 著者略歴」より。〕。少年時代は鉄道や飛行機を趣味としていたがロードレース世界選手権(WGP)を目指すことになる。本人曰く「小学生から鉄道に飛行機と、オタク街道まっしぐらだったのがナゼかバイクの道へ」〔KEN'S TALK 2より。〕。
父は漫画家の根本進で、朝日新聞の夕刊に4コマ漫画『クリちゃん』を連載していた〔『グランプリを走りたい』(p4)より。〕。
== 来歴 ==
; 1948年
: 東京都生。慶應義塾大学文学部中退〔。
; 幼少期
: 父の原稿を受け取りに来る新聞社のバイク「陸王」が来るのを心待ちにしていた〔『グランプリを走りたい』(p4, p5)より。〕。
; 小学生時代
: 鉄道好き〔。高学年で航空機ファンとなり、羽田空港横田基地などへ航空機を見に行く〔『グランプリを走りたい』(p5)より〕。
; 中学時代
: 中学1年時の夏休みの自由研究は『翼のアスペクト比と航続距離の関係』。中学2年では『翼断面と層流』。中学3年では『流体によって生じる衝撃波を再現する研究』を行ない、担任教師を呆れさせる〔。
航空機と平行して鉄道模型も趣味としていた。HOゲージの完成品の収集から始まり、ディテールにまで凝った模型を自作するようになる。常連となっていた模型店から依頼を受け、特注品製作のアルバイトを始める。蒸気機関車のモーターを改造したり、全動輪にサスペンションを組み込んだりして、裕福な顧客からの注文が殺到した。このアルバイトは中学生の間続けた。ヒット作はアメリカの鉄道模型雑誌に掲載されたトランジスター制御方式のパワーパックの自作であった。また、蒸気機関車のヘッドライトにはスケール感を重視して、電球は車体内に設置し、プラモデルのランナーを加工してヘッドライトまで光を導いて点灯させるような工夫もしていた。鉄道模型製作のアルバイト収入により少年時代は小遣いに困らなかった〔『グランプリを走りたい』(p8, p9)より。〕。
; 高校時代
: 航空機の趣味は高校生になっても続いており、父の知り合いが勤務する自衛隊の航研まで通うためにバイクを購入することにし、バイク選びのためにバイク雑誌を購読する。当時発行されていたバイク雑誌は『オートバイ』と『モーターサイクリスト』の2誌であった。根本はこれらの雑誌に掲載されていたWGPの記事に夢中になる。その頃はちょうど日本のバイクメーカーがWGPに挑戦し始めていた時期で、ホンダがチャンピオンシップを獲得し、日本メーカー同士の熾烈な戦いが繰り広げられていた。根本はちょうどこの頃、航空機への興味が薄れ始めていた。当時、「戦争がないと航空機産業は発展しない……」と言われていたことに矛盾を感じたことが航空機から興味を失う要因の一つとなった〔『グランプリを走りたい』(p9 - p12)より。〕。
そして、バイクの免許を取得してヤマハYG-1(2ストローク、75cc)を購入する。通学していた高校の規則ではバイク通学は禁止であったが、課外授業で酒匂川へ行く日に、他の生徒はバスに乗車して目的地に向ったが、根本はYG-1を走らせてそのバスに手を振りながら追い抜き、1週間の停学処分となる。その後、当時あった船橋サーキットに四輪車のレースを観戦に行ったのだが、そこでたまたまWGPマシンのエキシビションレースを見ることになり、これが切っ掛けでGPマシンへ興味を抱くことになり、マン島TTを走ってみたい、と憧れるようになる。それからは根本は、ヤマハYG-1(75cc)→ホンダCB125(125cc)→ヤマハYM-1(305cc)へと乗り換えていく〔『グランプリを走りたい』(p12 - p14)より。〕。
根本はチームに入会する。チームではメンバーが購入資金を出し合い、市販ロードレーサーヤマハTD-1C(250cc)を2台入手する。TD-1Cの試乗は富士スピードウェイで行なったが、当時は30度バンクが使用されていた。根本は自分自身のロードレーサーを入手するためにヤマハYM-1を売却し、ブリヂストンGB-1を中古で購入する。当時はブリヂストンもロードレーサーを製造していた〔『グランプリを走りたい』(p17 - p24)より。〕。
; カワサキのディーラーチーム時代
: 根本が所属していたチームはロードレースの素人の集まりだったので、本格的にロードレースをするためにチームを移ることにする。全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)を介して、カワサキディーラーを紹介してもらう。当時のカワサキのバイクは川崎重工業に統合される前の川崎航空機が製造していた。根本はこのディーラーチームの一員となり、カワサキのテストにも参加するようになるが、テストの日が高校の期末試験と重なってもバイクのテストを優先させたために高校を留年することになり、高校を卒業までに6年間もかかっている。カワサキのディーラーチームではバイクの基本構造やセッティングの仕方などを学び、2ヶ月後にはディーラーチームのメカニックがチューニングしたエンジンを搭載したバイクを駆ってノービス50ccクラスで2位となる〔『グランプリを走りたい』(p28 - p34)より。〕。
; カワサキ直系サテライトチーム時代
: その後、ディーラーチームの紹介によりカワサキのワークスライダー安良岡健が率いるカワサキ直系のアラオカレーシングチームに移籍し、カワサキのワークスチームが富士スピードウェイを借り切ってテストする日に根本も参加する。根本がチームに入ってしばらくすると安良岡がカワサキのメカニックに根本を推薦し、根本も試作部品のテスト走行に参加できるようになる。ある日、富士スピードウェイをワークス仕様のA1-R(250cc)で走行中に、30度バンクの出口付近の路面が荒れた部分で後輪が空転後にロックし、根本はバイクから投げ出されてしまい重傷を負う。この事故から1年後にやっと退院でき、レース活動を再開する〔『グランプリを走りたい』(p38 - p56)より。〕。
; 1970年全日本ロードレース選手権ジュニアクラス
: 根本は全日本ロードレース選手権ジュニアクラスのチャンピオン獲得を目指して本腰を入れる。最優秀選手賞を獲得して世界一周のチケットを手に入れることが目標である。日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)は、当時、最優秀選手賞のライダーに世界一周を賞品として用意していた。これは、日本でWGPが開催されなくなったため、ライダーを世界に派遣して世界のロードレース界との関係を保つことを目的としていた。結局、1970年シーズンは糟野雅治(ヤマハ)がチャンピオンとなり、根本(カワサキ)はランキング2位であった〔『グランプリを走りたい』(p62 - p66)より。〕。
; 1971年全日本ロードレース選手権90ccクラスで負傷、ロードレースから引退
: 根本は筑波サーキットにおいてカワサキ90SSで走行中に最終コーナーでエンジンが焼き付いてしまい転倒し、鎖骨を複雑骨折してしまう。この事故を切っ掛けに大学を中退し、チームからも退会してロードレースから引退する〔『グランプリを走りたい』(p68 - p70)より。〕。
その後、父親の紹介でラジオ局で働き始める。半年後、鈴鹿サーキットに取材へ行くようにディレクターから指示が出る。取材対象は「白バイ大会」であったが、偶然にもその週末は全日本ロードレース選手権の最終戦でもあった。根本は決勝レースを観戦することにした。この日は糟野雅治と顔を合わせた。糟野もこの日はレースに出場しないで観戦していた。糟野は1970年に最優秀選手賞を獲得したので、この年は世界一周旅行をしていて、帰国したところであった。糟野はヨーロッパに滞在し、フィル・リードの自宅に居候しながらWGPを観戦したりしていた。根本は糟野からヨーロッパの様子を聞き、プライベートライダーがレースだけでも生活していけることを知る。当時の全日本ロードレース選手権は優勝しても賞金が出なかったので、プライベートライダーはレースだけでは生活できなかった。また、日本人のワークスライダーは実質的には開発ライダーなので、マシンテストとしてWGPに参戦することはできてもフル参戦することは難しかった〔『グランプリを走りたい』(p71 - p74)より。〕。
; 1972年、ロードレースに復帰
: 根本と糟野雅治はヤマハの市販ロードレーサーTR3(350cc)を購入し、日本初のプライベートチーム「フライングドルフィン」を結成する。プライベートチームのため、スポンサーを探してレース活動資金を調達しなければならず、それには苦労したが、南海部品から支援を得ることができた。そして、根本自身もバイク関係の仕事で生計を立てるべく各バイク雑誌に営業活動を行い、カワサキ時代の知名度が幸いして、数々のバイク雑誌から試乗記の仕事を得ることができた〔『グランプリを走りたい』(p76 - p80)より。〕。
; 1972年、賞金レースを企画
: 根本と糟野雅治はプライベートチームとしてレース活動をしていくために必要と考えられることを実行に移す。その一つが賞金レースである。当時はMFJのレースもMCFAJのレースも賞金が出なかったためである。ワークスライダーはメーカーからの契約金により生活を成り立たせていたが、プライベートライダーはレース以外の仕事で生活を維持していた。当時、富士スピードウェイでは「グランチャン」と呼ばれる四輪車のレースに人気があった。そこで、根本らはMCFAJ事務局のスタッフと一緒に「グランチャン」のプロモーターと交渉し、前座レースとしてトップライダーのみのバイクレースを行うことに成功した。このレースは好評で、鈴鹿サーキットでも「2&4」としてバイクと四輪車のレースが同じ日に開催されるようになる。この企画は各地のサーキットでも受け入れられ、今は閉鎖されたむつ湾サーキットではスターティングマネーも支払われた。こうして上位入賞のライダーには数十万円単位で賞金が出るようになった。ただ、賞金は速いマシンに乗るワークスライダーが手にすることがほとんどであった〔『グランプリを走りたい』(p80 - p82)より。〕。
; 1973年、全日本ロードレース選手権セニア750ccクラスチャンピオン
: この年、ヤマハは初の水冷市販ロードレーサーTZ350を発売する。根本もTZ350を入手して全日本ロードレース選手権セニア750ccクラスに参戦する。この年のレースは片山敬済との接戦となる。片山と初顔合わせとなるレースは富士スピードウェイであった。東京出身の根本は富士スピードウェイを走り慣れており、神戸出身の片山より地の利があった。それでも片山は前年から注目されていた新人であったので流石に速く、根本と競り合いになる。レース終盤で片山が周回遅れのライダーをパスした後、片山に追随していた根本は周回遅れのライダーに手間取り、結局片山が優勝、根本は2位となった。その後のレースでは根本は手堅くポイントを獲得し、全日本ロードレース選手権史上初めてプライベートライダーとしてチャンピオンになった〔『グランプリを走りたい』(p83 - p90, p93)より。〕。
; 1974年、世界一周
: 昨シーズンに全日本チャンピオンとなった根本は、この年は世界一周のオープンチケットを手にする。この旅行により根本は、プライベートでもWGPは何とかなりそうだ、という感触をつかむ。帰国後根本は既に開幕していた全日本ロードレース選手権に参戦する準備を始める。手始めにTZ350のフロントブレーキの交換を行った。市販状態ではドラムブレーキだが、これをディスクブレーキに交換した。ほかにもフロントフォークやホイールなども交換したが、今シーズンはこのようにマシン作りに時間を裂くことになり、レースの成績はあまりよくなかった。しかし、根本はこれをヨーロッパで走るための準備と捉えていた〔『グランプリを走りたい』(p93 - p98)より。〕
; 、FIMインターナショナルロードレースライセンスの取得
: WGPに参戦するにはFIMが発行するインターナショナルロードレースライセンスが必要なのだが、今までの前例ではバイクメーカーの契約ライダーにしか発行していなかった。そのため、プライベートライダー(バイクメーカーと契約していないライダー)の根本にとって、このライセンスを取得すること自体が一苦労であった。今までFIMに書類を申請するときにはバイクメーカーによる推薦書と身元保証が必要であった。根本はMFJと交渉し、根本のライセンスの統括機関であるMFJ東京の推薦書と身元保証でFIMに申請することになり、FIMインターナショナルロードレースライセンスを取得することができた〔『グランプリを走りたい』(p98, p99)より。〕。
; 1975年、WGPへのエントリーの壁
: 当時のWGPはサーキットの大きさによって出走台数が決まっており、予選時からその台数しか走ることができない。その優先順位は、ライダーの前年のWGPでのランキングが優先され、次にGP開催国のライセンスを持つワイルドカードライダーとなる。日本では1967年を最後にWGPは開催されていないので、基本的にエントリーは無理なのであるが、日本メーカーと契約している日本人ライダーの場合は、日本メーカーが主催者にかなりの圧力をかけて例外的にエントリーが認められていた。しかし、根本はプライベートライダーなのでこのようなわけにはいかない。各国のレース主催者にエントリー用紙を送付してくれるように手紙を出しても無反応な場合が多かった。エントリー用紙を送付してくれた主催者の場合でも、エントリー用紙に記入してそれを主催者に送っても、受理したという返信はなかった。このような事情から根本はヨーロッパへ行って、エントリーを受け付けてもうらうために直接主催者と交渉することを決意する〔『グランプリを走りたい』(p100)より。〕。
; 1975年、WGPへの出発準備 - カルネ
: 根本はWGPでは250ccクラス(ヤマハTZ250)に参戦することにした。ヨーロッパへの荷物はトランスポーターとなるバンに全部積み込み、コンテナの船便で送ることにした。トランスポーターは世界共通の自動車保険に加入してJAFが発行するナンバープレートを取り付けていれば先進国間の運送協定によりカルネは不要である。旅行者が運転するトランスポーターは旅先で商品として売却しないので関税を掛けないことになっている。しかし、積荷となるTZ250は商品扱いとなるために通関にはカルネが必要となる。TZ250をある国で売却してしまうと関税対象となる。だが、TZ250が商品ではなく自分の所有物であれば関税はかからない。TZ250をある国で売却しないことを誓約する制度がカルネである。カルネがあればTZ250は商品でないので関税がかからない。ところが根本は日本の4メーカーのカルネの束を見せられた。それの束は6気筒や14速などのワークスマシンの名前が書かれたカルネであった。当時のトップライダーたちに日本メーカーがプレゼントしたワークスマシンは、本来はカルネ違反だったのだ。カルネにはバイクの価格を記入するのだが、根本はホンダの6気筒ワークスマシンが量産車の250ccと同じだったことを知った。ヤマハやスズキも同じであった。これは、スペインなどではカルネがあっても入国時に保証金を払わなければならず、出国時に保証金を返却する制度を採用しているため、日本メーカーが保証金対策としてワークスマシンの価格を量産車と同じにしていたのである〔『グランプリを走りたい』(p105, p106)より。〕。
; 1975年、WGPへの挑戦
: 根本はヨーロッパでの最初のレースをダッチTT(オランダGP)と決めて、エントリーを受理してもらうためにヤマハのオランダの現地法人ヤマハNVに協力してもらうことにした。しかし、ダッチTTの主催者はヤマハNVにも断わりの連絡を入れ、根本はダッチTTを走ることができなかった。翌週のベルギーGP(スパ・フランコルシャン)では日本から送ったエントリー用紙が届いていたので出場することができた〔『グランプリを走りたい』(p117)より。〕。当時のスパ・フランコルシャンは1周14kmと長く、また、250ccクラスの平均速度が200km/hを越すというWGPで最も平均速度が速いサーキットであった。当時の市販状態のヤマハTZ250の最高速度が215km/hだったので、かなりの高速サーキットであることがわかる〔『グランプリを走りたい』(p126)より。〕。初めてのWGPで、なおかつ初めてのコースだったので根本は予選結果が31位となり、予選落ちしてしまう。かつて、ヤーノ・サーリネンのメカニックをし、当時はケント・アンダーソンのメカニックをしていたフェリーに「Ken、ココはキャリアがないと難しい。初挑戦にしては良い結果だヨ」と慰められる。また、500ccクラスに参戦している日本のメーカーのワークスチームの人たちからも「市販レーサーじゃ辛いよネ」と同情された。更に、ジャコモ・アゴスチーニからは「世界GPは知らないコースでも、即座に最速の走りが要求される。徐々に徐々にじゃ通用しない」と言われて気落ちする。しかし根本はこれにより全日本ロードレース選手権時代の実績へのこだわりを捨てることができた〔『グランプリを走りたい』(p137, p138)より。〕。
; 、WGP - メカニックに柳沢雄造を迎える
: 1976年シーズンは、ヤマハTZ250で最終戦までのハーフシーズンだけ参戦する。来シーズンのフル参戦に向けて、柳沢雄造WGPの実状を知ってもらうことと、ヨコハマタイヤと共同で行っている新型タイヤの開発が主目的である〔『グランプリを走りたい』(p142)より。〕。
; 、WGPにフル参戦
: 1977年シーズンは250ccクラス(ヤマハTZ250)と350ccクラス(TZ350)にダブルエントリーする。マシンは柳沢雄造がエンジン、サスペンション、チャンバーなど、いろいろ開発した〔『グランプリを走りたい』(p146)より。〕。また、ヨーロッパの日立がスポンサーにつき、そして、日本製タイヤとして初めてスリックタイヤヨコハマタイヤ)をWGPに持ち込む〔『グランプリを走りたい』(p151)より。〕。また、1977年版のイヤーブック『moto CONTINENTAL CIRCUS 1977 - BARRY SHEENE STORY』の表紙には根本の後ろ姿が載った〔『グランプリを走りたい』(p155)より。〕。
; 、WGPから引退、『ライダースクラブ』編集長に
: 1978年はヨコハマタイヤWGPから撤退することになり、根本はスポンサーを失なう。そのため、メカニックの柳沢雄造に報酬を払うことができなくなってしまい、根本はメカニックなしで250ccクラス(ヤマハTZ250)に参戦することにした。しかし、思い描いているようなレース展開にはならず、西ドイツGP(ニュルブルクリンク)を最後のレースとし、日本へ帰国する。帰国後は雑誌『ライダースクラブ』の編集長に就任し、以後17年間バイクメディアで活躍する〔『グランプリを走りたい』(p171 - p174)より。〕〔。当時はWGPで日本人のワークスチームの関係者に会うと日本では聞けないような話が話題になるほど親しくなることができ、この時に築いた人脈が編集長になってから活かされ、日本メーカーは根本に好意的で、『ライダースクラブ』は他誌より優位に取材をすることができた。そのため他誌から抗議されるほどであった〔『グランプリを走りたい』(p124, p125)より。〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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