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鈴鹿サーキット : ミニ英和和英辞書
鈴鹿サーキット[すずかさーきっと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
鹿 : [しか]
 【名詞】 1. deer 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

鈴鹿サーキット : ウィキペディア日本語版
鈴鹿サーキット[すずかさーきっと]

鈴鹿サーキット(すずかサーキット、Suzuka Circuit)は、三重県鈴鹿市にある国際レーシングコースを中心としたレジャー施設F1日本グランプリ鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる。レーシングコースの他に遊園地ホテル等があり、モビリティリゾート(自動車を題材とする行楽地)を形成している。
日本初の全面舗装と観客席の両方を備えたサーキットとして、1962年本田技研工業(ホンダ)によって建設された。現在はホンダグループでモータースポーツ関連施設を運営する会社、モビリティランドによって運営されている。
== 開設 ==
1950年代末より日本の2輪メーカーはマン島TTレースへの海外挑戦を始めたが、日本初の常設サーキットとして1936年にオープンした多摩川スピードウェイの廃止後、国内の常設サーキットは未舗装の浅間高原自動車テストコースしかなく、代替コース建設案も進展しなかった〔マイ・ワンダフル・サーキット 第28回 〕。
ホンダ創業者で、多摩川スピードウェイで行われた第1回大会にも参戦した本田宗一郎は、レースの勝利とモータースポーツの普及のためには本格的なサーキットが必要であると確信し、自社で建設するよう命を下した。巨額の投資を危ぶむ声もあったが、藤沢武夫専務が自宅を抵当に入れるなどして推進に向けての意見をまとめ、社内にレース場建設委員会が発足した。複数候補地を検討した末、スーパーカブ増産工場として完成した鈴鹿製作所〔Honda 鈴鹿製作所 〕の隣接地を買収することになった。当初は現在よりも北東寄りの水田を転用して1周約4kmのコースを計画していたが、本田の「米のできる水田を潰したら、目が潰れる! お米を粗末に扱うな!」との一喝で、丘陵地帯の50万坪の松林を造成することになった。〔マイ・ワンダフル・サーキットⅡ 第4回 走れる場所がほしい! だから、サーキットを!
後にホンダランド取締役となる塩崎定夫がコースレイアウト設計グループの責任者となった。塩崎は鈴鹿製作所の生産管理を担当していたが、サーキット設計に関しては全くの素人だった〔大串信 「ゼロから鈴鹿サーキットを作り上げた塩崎定夫に訊く-『まさか50年後にも褒めてもらえるなんて』」『Racing On 総力特集 鈴鹿サーキット (No.461) 』 三栄書房、2012年10月、pp.12-16〕。1960年8月に最初のコースレイアウト原案を作成したが、この初期案は立体交差が3か所あるという特異なレイアウトだった〔。その後、ヨーロッパのサーキットを視察し、ザンドフールト・サーキットの支配人を務めており、なおかつモンツァブランズ・ハッチホッケンハイムリンクニュルブルクリンクなどからなるサーキット連合体A.I.C.P.を組織運営して取りまとめていたジョン・フーゲンホルツ (John Hugenholtz) を招聘して詳細設計を依頼、施工全体にわたる助言を受けた。
河島喜好は「ヨーロッパのコース設計者(フーゲンホルツ)と(鈴鹿の)山の中を長靴をはいてマムシにおびえながら歩いた」「タイヤの片方だけが減ってしまうのを防ぐために(フーゲンホルツから)立体交差をつくって8の字にすればタイヤの両サイドが削れるようになる」と立体交差を設計提案されたことを証言している〔本田文庫『情熱の最前線 特別座談会「モータースポーツへの情熱」』(本田技研工業株式会社人事部人材開発センター社内広報グループ製作、本田技研工業株式会社広報部発行、1994年9月30日)p.24〕。塩崎案ではパドックの裏手にヘアピンがあったが、「そんな所にコーナーがあると、騒音がうるさくて場内放送が聴き取れないだろう」というフーゲンホルツの助言を受けて廃止された〔『カーグラフィック 2012年11月号』 カーグラフィック、2012年、p.147〕。

塩崎は地形の模型上にコースの線を引く際、土木工事よりも施設建設に費用を充てるため、なるべく土砂を削らないで済むよう心がけたという〔。1稿から5稿に推移するうちに次第に高速サーキットの様相を呈していき、最終的には「行きはテクニカルにコーナーをクリアして帰りは高速で戻る」というレイアウトになった〔。欧州視察時にはサーキットの舗装を靴べらで削って持ち帰り、舗装工事を受注した日本鋪道KK(現NIPPO)にサンプルとして提供した。その際、さらに施工会社が容易に特殊なサーキット舗装の構造を理解できるように、フーゲンホルツは各地サーキットの走行路の路面の舗装を茶筒状にくりぬいた供試体(サンプルコーン)を調査団に提供した。当時のA.I.C.P.加盟サーキットの舗装路面の転圧、幾層もの舗装の積み重ねかたなどの最先端技術をこの供試体によって日本へと持ち帰ることができた。当時の日本ではまだ高速道路が整備されておらず、塩崎は「日本では高速道路より先にサーキットが出来て、それの舗装を参考にして高速道路が作られた」と述べている〔。
1961年2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現モビリティランド)が設立され、同年6月に工事着工。1962年9月にサーキットが完成し、同年11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された〔。付帯施設を含む総工費は15億円(現代に換算すると255億円〔大久保力『サーキット燦々』 三栄書房、2005年、105頁。〕)に達した。
当時はオートバイで騒音を撒き散らすカミナリ族が社会問題化していた。藤沢は「子供のころからエンジンを楽しむことこそが、未来の自動車環境の発展に寄与する」という理念の持ち主で、当初からサーキットに家族連れで楽しめる自動車遊園地を併設することを考えていた。この「モータースポーツランド構想」の下、東京都多摩テック(1961年)、奈良県生駒テック(1961年)、鈴鹿サーキットのモートピア(1963年)、埼玉県朝霞テック(1964年)が順次開園した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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