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柿澤弘治 : ミニ英和和英辞書
柿澤弘治[かきざわ こうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かき]
 【名詞】 1. persimmon 2. diospyros kaki 

柿澤弘治 : ウィキペディア日本語版
柿澤弘治[かきざわ こうじ]

柿澤 弘治(かきざわ こうじ、1933年11月26日 - 2009年1月27日)は、日本政治家大蔵官僚位階従三位勲章旭日大綬章
衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)、外務大臣第121代)、自由党代表、自由連合代表を歴任した。
== 来歴 ==
東京府東京市日本橋区小伝馬町(現東京都中央区日本橋小伝馬町)に柿澤常次郎の子として生まれる。生家は江戸時代創業の葛籠屋「柿澤常次郎商店」。東京都立両国高等学校東京大学経済学部卒業。1958年大蔵省(現財務省)に入省。同期入省は大野功統(元防衛庁長官)、尾崎護(元大蔵事務次官)、角谷正彦(元国税庁長官)ら。本省勤務の他、外務省経済企画庁への出向やフランスベルギーでの海外勤務を経験し、ベルギーに赴任中には長男の未途が誕生した。帰国後の1974年より、三木内閣井出一太郎内閣官房長官の秘書官を務める。
1977年第10回参議院議員通常選挙新自由クラブ公認で東京都選挙区から出馬し、初当選した。1980年、参院議員を任期途中で辞職。第36回衆議院議員総選挙旧東京6区(定数4)から新自由クラブ公認で出馬し、当選した(当選同期に古賀誠平沼赳夫太田誠一久間章生川崎二郎森田一高村正彦らがいる)。しかし、翌年新自由クラブ・社会民主連合統一会派結成に反対し、新自由クラブを離党。1983年自由民主党に入党し、同年の第37回衆議院議員総選挙は自民党公認で当選した。なおこの総選挙で、自民党は旧東京6区に柿澤、天野公義山口シヅエの3人を擁立したが、当選したのは柿澤のみであった。自民党入党後は中曽根派に所属し、渡辺美智雄の側近であった。
1994年4月、首相細川護煕が唐突に辞意を表明。後継首相の選出にあたり、新生党代表幹事の小沢一郎が自民党の渡辺美智雄の擁立に動く。柿澤は同じく渡辺の側近である太田誠一新井将敬佐藤静雄山本拓米田建三の5人を率いて離党し、保守系無所属高市早苗が加わって政策集団「リベラルズ」を旗揚げする。さらにリベラルズを母体に自由党を結成し、党首に就任する(柿澤自由党)。しかし肝腎の渡辺は結局自民党離党を決断できず、小沢ら連立与党は羽田孜を擁立した。
柿澤自由党は羽田内閣に参加し、柿澤は外務大臣に就任する。しかし、日本社会党の連立離脱により羽田内閣は少数与党政権に転落し、自民党から提出された内閣不信任決議案の採決の直前に羽田が退陣を表明。自民・社会・新党さきがけ3党は日本社会党委員長村山富市を首班候補に擁立する方向で調整を進め、これに対し旧連立与党は自民党を離党した海部俊樹を擁立するも、海部は僅差で村山に敗れ、村山内閣が発足。同年7月、自由党や高志会が結集し、海部を代表に自由改革連合が結成される。自由改革連合は新生党、公明党民社党日本新党等の旧連立与党グループに合流し、同年12月に新進党を結党。海部が初代新進党党首に就任する。しかし柿澤、佐藤の2人は新進党には合流せず徳田虎雄率いる自由連合に入党。後に自民党に復党した〔なお自由連合はこの時期、他党から自民党に入党する議員のためのワン・クッションにしばしば使われ、元民社党委員長の大内啓伍も民社党が新進党に合流する際に新進党には加わらず、自由連合を経て自民党に入党している。〕。自民党復党後は高校時代の同級生である島村宜伸が所属していた中曽根派に入会するが、1998年山崎派の旗揚げに参加する。
1999年東京都知事選挙に出馬するため、衆議院議員を辞職。自民党はこの選挙で元国際連合事務次長の明石康を推薦しており、党の意向に逆らって出馬を強行した柿澤に対し、幹事長森喜朗が激怒。柿澤は自民党を除名されたため、選挙中は飯島愛雨宮処凛らの応援を受けた他、妻の映子がマスコミの前に登場して悲壮感をアピールする選挙戦を展開した。公示日の直前になって唐突に出馬を表明した石原慎太郎や、民主党を離党して出馬した鳩山邦夫、明石、舛添要一ら保守系候補が乱立したため票が分散し、得票数6位で落選するが、供託金の没収は免れた。
都知事選落選後、当初は国政へは戻らない意向を表明していたが、2000年第42回衆議院議員総選挙東京15区から無所属で出馬し、自民党の木村勉、民主党の馬渡龍治自由党東祥三らを破り、当選。その後、無所属の会に入党した(無所属のままでは政党助成金や企業・団体献金を受け取れないため)。しかし2003年第43回衆議院議員総選挙では木村、東に次ぐ3位で落選し、政界引退を表明した。柿澤が国政選挙で落選したのは、初出馬以来この時が初めてだった。
引退後は柿澤総合政策研究所を設立し会長。 更に東海大学平和戦略国際研究所教授に就任。執筆・講演活動などを行う。
2003年、現役時に休暇を過ごしていた山梨県北巨摩郡長坂町(現北杜市長坂町)に居を移し、八ヶ岳山麓の活性化を目指す民間の地域振興組織「八ヶ岳連邦共和国」及び「八ヶ岳南麓風景街道の会」を設立し、代表に就任する。2007年2月、山梨県知事横内正明により新設された知事特別顧問(非常勤)に招聘され、同年4月就任したが、体調不良を理由に2008年3月をもって辞任した。このほか、日本ソムリエ協会名誉ソムリエや日本ホスピタリティ推進協会理事長、東京都ユースホステル協会会長を務めていた。
2009年1月27日食道癌のため東京都内の病院で死去。享年75。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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