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板垣信方 : ミニ英和和英辞書
板垣信方[いたがき のぶかた]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ばん, いた]
 【名詞】 1. board 2. plank 
: [かき]
 【名詞】fence
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 

板垣信方 : ウィキペディア日本語版
板垣信方[いたがき のぶかた]

板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代武将武田信虎晴信(信玄)の二代に仕えた。武田二十四将武田四天王の一人。家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。
武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。
== 生涯 ==
信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍したといわれ、天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をしたという〔『甲陽軍鑑』によれば嫡男晴信の傅役であったという。〕。
天文10年(1541年)には信虎嫡男晴信(信玄)によるが信虎の駿河国追放が起きている。〔『甲陽軍鑑』では信虎・晴信の間には軋轢が存在し、晴信は信方と甘利虎泰の両人を頼りにして事を起こしたとしている。〕。『甲斐国志』によれば、晴信が家督を継ぐと、信方と甘利虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられたという〔「両職」は天分20年時に板垣信憲甘利昌忠の在職が確認されるが(坂名井家文書)、『国志』では遡逆して両名の父である信方・虎泰が務めたとしている。〕。
同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。〔『甲陽軍鑑』や『名将言行録』にはこの頃のこととして信方の忠節ぶりを示す有名なエピソードがある。気が緩んだ若い晴信は詩会や遊興に耽るようになった。信方は病と称して暇を受けて30日間留守にした。再び出仕した信方は晴信の詩会に出席して見事な詩を五度も書いてみせた。晴信がどこで学んだのかと問うと、信方は主君の嗜むことを家臣がしないのはどうかと思い留守の間に僧に学んだと答えた。晴信が機嫌を良くすると、信方はすかさず「父君は非道が過ぎたために追放されたのに、それから3年も経たずにこの有様では信虎様以上の悪大将であられる。腹立たしければご成敗ください。それがしは何時でも馬前で討ち死にする所存です」と諫言をした。晴信は感涙して、それ以後はよき大将になったという。〕
高白斎記』に拠れば、高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は天文12年(1543年)4月に信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、翌5月には上原城を整備して入部している。なお、信方はこれに先んじて諏訪・佐久両郡において判物による所領宛行を行っているが(「千野家文書」)、この際の所領宛行は後に再安堵されている点から仮約束的なものであったと考えられている。諏訪支配を担当した信方の立場については『神使御頭之日記』や『甲陽軍鑑』においては「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされているが、永禄8年(1565年)「諏方神者祭祀再興次第」においては「諏方郡司」の呼称が用いられている点が指摘される〔笹本正治『諏訪市史』など。なお、戦国大名の領域支配においては国郡制の「郡」とは異なる独自の領国内地域区分である「」単位の支配が行われているが、武田領国における郡代は「郡司」に相当し、信方の事例のように新規支配地において城将が兼任し、郡司職を兼ねた城将が「城代」に相当している可能性が考えられている。〕。
天文14年(1545年)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて晴信は再び背いた藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した〔『甲陽軍鑑』によると戦勝した信方は小笠原勢へ追い討ちをかけるが不意打ちを受けて敗北してしまい、他の家臣は信方の責任を問うが、晴信は後続に損害を出さずに踏み止まった信方を褒めたという。〕。
天文16年(1547年)閏7月、晴信は信方率いる諏訪衆とともに大軍で佐久郡に侵攻し、志賀城笠原清繁を包囲した。関東管領上杉憲政金井秀景に西上野衆を率いさせ救援の軍を差し向けた。晴信は信方と甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃にあたらせる。8月6日、信方は小田井原の戦いで関東管領軍を撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝をおさめた。救援の望みを失った志賀城は落城し、晴信は佐久郡の平定を完了する

『甲陽軍鑑』などによると信方は、この頃から増長気味の行いが目に付くようになったという。戦勝の折に晴信の許可なく勝鬨式首実検等を行うようになり、晴信からやんわりと「誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ穴や、人の世の中」と和歌でその行いを窘められる等、大人気ない行いが目立つようになった。また軍才もやや衰え気味で、天文16年(1547年)の村上氏との戦いではあわや全滅の憂き目に会い、原虎胤に救援されたりしている。〕。
天文17年(1548年)2月、晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。同2月14日の上田原の戦いで武田軍は敗北し、信方は甘利虎泰、才間河内守初鹿伝右衛門と共に討死した〔上田原の戦いで信方は先陣を務め、緒戦では村上軍を撃破するが、気を緩めてしまい勝鬨をあげ備から離れて首実検をはじめた。村上勢は体勢を立て直して急襲し、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれ討ち取られた(『甲陽軍鑑』による)。また異説として、退却を始めた村上軍に対し、信方の隊が深追いしすぎたため孤立、反撃に転じた村上軍の将、上条織部によって討たれたとも言う(三田村孝「板垣信方(形)の家族とその子孫」による)。〕。
信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、不行跡のために武田信玄によって武田家から追放され、のちに誅殺された。これにより板垣家の嫡流は一旦断絶したが、のち同族の於曾氏出身の左京亮信安が、板垣氏再興を武田信玄に願い出て承認され、嫡流を継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「板垣信方」の詳細全文を読む




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