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板垣 信憲(いたがき のぶのり)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。 ==人物== 武田晴信(信玄)期の重臣・板垣信方の長子として生まれる。天文17年(1548年)の上田原の戦いで父が戦死したため、家督を継いで諏訪城代となった。200騎の同心・被官を有していた。両職の地位にあったとされるが、父と違って有能ではなく、晴信からは疎まれていたとされる。 天文21年(1552年)、晴信から 一、千年法福寺合戦の際に仮病で出陣を怠り、小山田左兵衛尉の兵が空しく日を送り、小笠原勢との合戦を遅くさせた事。 一、諏訪郡代は境域を警備する役なのに、遊芸に耽り役目を果たしていない事。 一、同心や被官を依怙贔屓し粗末に扱っている事。 一、馬場民部、内藤修理などの弥次郎より先輩の武将が戦っている時に、先んじ戦わずこれを見物していた事。 一、甘利左衛門尉は当年十九歳であるが、良く働いて感状も貰っているが、弥次郎は良い同心や被官を持ちながらも、一度も手柄を立てていない。これはこの信玄に忠節の無い証である。 一、陰でこの信玄の噂や悪口を言っていたらしき事。 一、仲間同士のつきあいも粗略である事。 という7箇条にわたる詰問状を突きつけられ、従来の不行跡を理由に城代を解任されたうえ、甲府長禅寺に押し込めに処せられた。 家臣らにも見放されたが、父信方が草履取りから取り立てた曲淵吉景だけが長禅寺にも従って来たが、吉景が少し目をはなした隙に、天文22年(1553年)、私怨により本郷八郎左衛門に殺害される(異説〔信玄の不興を買い、成敗されたとも。また弘治3年(1557年)7月の信濃小谷城攻めに名前が見える(千野文書)ため、没年については不確かなところが多い。〕あり)。 これによって板垣家は一旦断絶したが、信玄は於曾左京亮(板垣信方の女婿)に名跡を継がせて板垣家を再興させ、左京亮は板垣信安を称した。信安の嫡子に板垣修理亮がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板垣信憲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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