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松殿基房 : ミニ英和和英辞書
松殿基房[まつどの もとふさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
殿 : [どの, との]
 【名詞】 1. (pol) person 2. Mister (mostly in addressing someone on an envelope) 3. Mr 
: [き, もとい]
 【名詞】 1. basis 
: [ぼう, ふさ]
 【名詞】 1. tuft 

松殿基房 : ウィキペディア日本語版
松殿基房[まつどの もとふさ]

松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。正式には藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。藤原忠通の五男。松殿家の祖。松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白(まつどの かんぱく)。
== 生涯 ==
保元元年(1156年)8月、元服すると同時に正五位下に叙任され、翌月に左近衛少将に任ぜられる。翌年8月には従三位権中納言となる。その後も内大臣右大臣左大臣などの高官を歴任し、兄の近衛基実が早世すると、その息子である近衛基通が幼少のため、六条天皇摂政に就任した。仁安3年(1168年)2月、六条天皇が高倉天皇譲位すると、引き続いて摂政を務め、嘉応2年(1170年)12月には太政大臣承安2年 (1172年)12月には関白となった。
しかし、兄・近衛基実の死後、その遺領の大半は基実の妻であった平盛子のものになっていた。『玉葉』によれば、承安3年(1173年)6月頃に後白河法皇が基房と盛子の再婚話を進めたとされている。だが、基房はその2年前に既に平清盛と親しかった三条公教の娘〔『今鏡』(巻6)によれば、公教の没後にその父親であった太政大臣藤原実行の意向で北政所にしたと記されており、事実とすれば公教が没した永暦元年(1160年)7月から実行が没した応保2年(1162年)7月に婚姻が行われたことになる。〕と婚姻していたにも関わらず、太政大臣・花山院忠雅の娘・忠子を北政所にするという事件(『玉葉』承安元年8月10日条)があり〔なお、『愚管抄』巻5によれば、三条家の人々は基房が花山院家の血を引く師家を鍾愛して後継者と定めた(結果的に三条家の血を引く隆忠が軽んじられる)ことに反発して基房と不仲になったという〕、更に盛子を迎えることに清盛が反発したため、この話は中止となった。清盛は基実の子である近衛基通を正統な後継者とみなして、基房をその中継ぎと考えていたとみられており、その権力の強化に警戒を抱いてようである。また、他の公卿にも似た動きがあり、仁安3年(1168年)の大嘗祭に付随して行われる五節舞の帳台試(天皇御前での予行演習)における摂政参入への随行を左近衛大将・藤原師長と右近衛大将・久我雅通が揃って拒否して解任される事件が発生している〔なお、この際大将の代役を務めた基房の義弟藤原実房の『愚昧記』(仁安3年11月20日条)によれば、特に師長については「旧意・旧懐」があったとして、彼が父頼長の遺志を継いで基房から摂政の地位を奪おうとしていると批判している(樋口健太郎「藤原師長論」(『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年)所収、原論文は2005年)。〕。
治承3年(1179年)2月に北政所である忠雅女が皇太子言仁親王の養母となった。これは基実正室の盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例に倣ったことと、基房と平家の連携を図った後白河法皇の意図であったとされるが、清盛からは基房が基通から摂関家当主の地位を奪おうとしていると反発を受けた。続いて盛子と平重盛が死去すると、基房はその遺領を清盛に何の相談も無く、後白河法皇と謀って没収するという反平氏的政策を打ち出した。これに清盛は激怒して同年11月、軍を率いて上洛し、クーデターを起こす。清盛の軍事力の前に基房が抗せるはずもなく、直ちに反平氏的公卿と見なされて解官されたうえ、大宰権帥に左遷される〔摂関の職に就いている公卿が遠流とされるのは史上初めてのことであり、『尊卑分脈』に「摂関人遠流例」との記載がある。〕。
途中備前国出家する事でようやく同地滞在を許された。その後の治承4年(1180年)12月になって、ようやく罪を許されている。
清盛の死後、平氏が急速に衰退して寿永2年(1183年)に源義仲の攻勢の前に都落ちすると、基房は娘(伊子とされる)を義仲の正室として差し出して連携を結んで清盛時代に失った権勢を取り戻そうと画策する〔義仲と基房の娘の婚姻を語るのは『平家物語』だけで、『玉葉』『愚管抄』には記述がないため、『平家物語』の創作とする見解もある。〕。
そして同年11月、義仲の勢力を背景にして息子の師家後鳥羽天皇の摂政・内大臣にまで昇進させた〔内大臣徳大寺実定が喪中であることを利用して、実定に迫って一時的に内大臣の地位を師家に貸し出させたのである(『玉葉』)。〕。だが、寿永3年(1184年)1月に義仲が源義経らによって討たれると、基房は政界から引退することを余儀なくされ、師家も罷免されてしまった(ただし長男の隆忠は建暦元年(1211年)まで左大臣)。
その後は朝廷における行事など、形式的な儀礼などに関わるだけの長老として顔を出すだけだったが、公事故実に通じた博識として後世まで重んじられた。寛喜2年(1230年)12月28日、87歳の長寿をもって薨去。法号は中山院、または菩提院。
容姿は色白で痩せ、顔形がよく美男だったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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