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藤原忠通 : ミニ英和和英辞書
藤原忠通[ふじわらただしどおり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [つう]
  1. (adj-na,n) (1) connoisseur 2. authority 3. (2) counter for letters, notes, documents, etc. 

藤原忠通 : ウィキペディア日本語版
藤原忠通[ふじわらただしどおり]

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、日本平安時代後期から末期の公卿従一位摂政 関白太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。
摂政関白太政大臣藤原忠実の長男。
== 生涯 ==
康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服白河法皇猶子となる〔忠通の子・兼実の日記『玉葉』には、忠通は法皇の実の妹である篤子内親王(堀河天皇中宮・藤原師実養女)の養子になったとする(承安5年7月26日条)。〕。永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女藤原璋子閑院流藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘をこうむり関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任。その後も崇徳近衛後白河の3代に渡って摂政・関白を務めることとなった。摂関歴37年は高祖父頼通の50年に次ぐ。また太治4年(1129年)、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮女御として入内させ〔摂関家からは藤原寛子(頼通の娘)以来約80年ぶりの入内。なお、養女を含めると、堀河天皇中宮篤子内親王藤原師実養女、後三条天皇皇女)以来で38年ぶりとなる。〕、翌5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日、女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという〔『今鏡』第八、腹々の御子〕。保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。
一般には父・忠実が弟の頼長を寵愛する余り、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力をかけられたように言われているが、実際には長い間摂関家を継ぐべき男子に恵まれず〔正妻の藤原宗子との間には男子が生まれたが夭折。また、妾腹の男子に恵信(永久2年(1114年)生)・覚忠(元永元年(1118年)生)がいたが、いずれも出家している。この2人に対しては、正妻宗子が良い感情を抱いていなかったようであり(『今鏡』)、2人の出家については宗子への配慮または彼女自身の意図に依るものであることを窺わせる。〕、天治2年(1125年)に23歳年下の頼長を一度は養子に迎えている。だが、40歳を過ぎてから次々と男子に恵まれるようになった忠通が実子に摂関家を相続させるため、頼長との縁組を破棄した。
忠通と忠実・頼長は近衛天皇の後宮政策においても対立し、久安6年(1150年)正月に頼長が養女・多子を入内させ、皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女・呈子を入内させて、中宮に冊立させた。この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗し、久寿2年(1155年)の後白河天皇の践祚により復権。それら一連の対立が保元の乱の原因の一つとなった。乱後、氏長者の地位は回復されたが、その際に前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、宣旨によって任命が行われ、藤原氏による自律性を否認された。更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の荘園及び個人の荘園が全て没官領として剥奪されることになったが、忠通が忠実に摂関家伝来のものと忠実個人の荘園を自分に譲与するように迫り、漸く忠通の所領として認められて没収を回避された。
保元3年(1158年)の賀茂祭の際に院近臣藤原信頼との対立を起こしたことから後白河天皇より閉門に処せられて事実上失脚、同年に関白職を嫡男の基実に譲った。やがて、平治の乱信西と藤原信頼が討たれ、続いて実権を握った藤原経宗藤原惟方も配流されたことで、朝廷には既に退位した後白河上皇と二条天皇の対立と政務担当者のいない状態だけが残された。そんな中で「大殿」と称された忠通が一時的に復権している〔佐伯智広「二条親政の成立」(初出:『日本史研究』505号(2004年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5)〕。その後、応保2年(1162年)に法性寺別業で出家して円観と号した。忠通は晩年身近に仕えていた女房の五条(家司源盛経の娘)を寵愛していたが、長寛元年(1163年)末か翌年の年初頃、五条が兄弟の源経光と密通、これを目撃した忠通は直ちに経光を追い出した(『明月記』)ものの、精神的な衝撃もありまもなく薨去したという〔角田文衛『平安の春』講談社学術文庫、平成11年(1999年)、226頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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