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有馬稲子 : ミニ英和和英辞書
有馬稲子[ありま いねこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
: [いね]
 【名詞】 1. rice-plant 
稲子 : [いなご]
 【名詞】 1. locust 2. grasshopper
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

有馬稲子 : ウィキペディア日本語版
有馬稲子[ありま いねこ]

有馬 稲子(ありま いねこ、1932年4月3日 - )は、日本女優。本名:中西 盛子(なかにし みつこ)。大阪府豊能郡池田町(現:池田市)出身。血液型はA型。愛称はネコちゃんおイネホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。
== 略歴・人物 ==
父が共産主義者だったため官憲に追われ、見かねた祖母が4歳の盛子を釜山にいる、父の実姉の中西かねの下に連れて行く。かね夫婦は子供がいなかったため、盛子は養女となる。養母(伯母)の中西かねは1916年から1926年にかけて有馬稲子(旧字体:有馬稻子)の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていて、盛子も養母から踊りを習う。釜山公立高等女学校に入学するも、間もなく終戦を迎え、伯母の手配で引き揚げ船に乗り、下関に帰国する。当初は引き揚げ船で知り合った人物の世話になり、小倉で1ケ月滞在するも、大阪にいた盛子の実の両親が彼女の生存を知り、再会を果たす。しかし、実父の虐待や弟妹達との関係が上手くいかなかったため、自殺を考える時期もあったという。1945年秋、大阪府立夕陽丘高等女学校に編入する。
1948年、友人から薦められて受けた宝塚音楽学校に入学する。養母が宝塚歌劇団にいたことは、入学後に当人から知らされたという。1949年宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に入団、二代目有馬稲子を襲名する。この芸名は百人一首大弐三位の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来する。この由来を知ってからは、古臭いと思っていた自分の名前が好きになったという。宝塚入団時の成績は63人中9位〔監修:小林公一『宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて(人物編)』(阪急コミュニケーションズ2014年4月1日)P.45-46。ISBN 9784484146010〕。在団期間は短かったが、主演娘役として活躍した。在団中の1951年東宝寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビューする。元々、宝塚在団中から新劇のファンであり、映画への誘いに抵抗がなかったという。同年7月、映画『せきれいの曲』で初主演する。宝塚歌劇団の最終出演公演の演目は花組公演『巴里の騎士/かぐや姫』〔である。
1953年、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、3月25日付〔で宝塚歌劇団を退団し東宝の専属女優となる。1954年には岸惠子久我美子らと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立する。以降、岸・久我との半世紀にわたる友情は有名である。自ら出演作を決めたりする活発な活動は、「ゴテネコ」とも揶揄された〔「わたしの失敗」 p197。〕。
1955年松竹に移籍する。同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子と共に「松竹の二枚看板」として大活躍した。
1960年3月30日から5月15日まで約1ヶ月半、ヨーロッパを旅行する。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なヨーロッパ旅行となった。
1961年公開の『もず』(渋谷実監督)について、当初は杉村春子と岡田茉莉子が母娘役での出演とされていたが、最終的には淡島千景と有馬での製作となった。これは有馬が所属していた「にんじんくらぶ」が『もず』の権利を保有していたためだという。この件は「もず事件」としてマスコミで喧伝された〔岡田茉利子『女優 岡田茉利子』(文藝春秋)P.194-195〕。
1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げる。披露宴の招待客は約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートルで当時の値段で16万円、と日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式だった。また、2人の結婚を祝して「有馬錦」という銘柄の日本酒も造られた。さらに中村の父親から900坪の土地を京都に与えられ、そこに150坪の邸宅を構えた。しかし、そこでの家事生活は過酷なもので、昼も夜も台所に立つ日々に疲れてしまい、これが離婚の一因になってしまったという。結婚から約3年7ヶ月後に離婚する。1969年には実業家の河村三郎と再婚するも、1983年に離婚する。なお、中村(萬屋)、河村いずれとの間にも子はなかった。
1965年、負債による「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の解散後は、宇野重吉に私淑し劇団民藝に所属する。演技を基礎から学び直したが、再婚と同時に退団した。その後は主に舞台とテレビドラマを中心に活躍している。
自身の著書『バラと痛恨の日々』(1995年)などで、初婚前にある映画監督と不倫関係にあったことを告白している。2010年4月、『私の履歴書』(「日本経済新聞」)でもこの不倫と堕胎について触れ、赤裸々な連載が話題となった。有馬自身は映画監督の実名を公表していないが、一部のマスコミは市川崑であると実名報道している〔有馬稲子が市川崑監督との不倫、堕胎告白 - asahi.com (2010年4月22日) 2012年4月9日閲覧。〕〔不倫中絶を告白...有馬稲子が市川崑監督と - nikkansports.com (2010年4月22日) 2012年12月13日閲覧。〕。
2013年7月17日宝塚大劇場で開催された「宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年(ももとせ)の道〜いま新しき未来へ〜」に、八千草薫天海祐希檀れい(司会を担当)達と共に出席した〔宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年(ももとせ)の道~いま新しき未来へ~ - スポニチ、2013年7月18日〕〔式典詳報…すみれ寮も新築へ 90代も参加100周年祝う、天海祐希は… - 産経、2013年7月18日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「有馬稲子」の詳細全文を読む




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