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宇野重吉 : ミニ英和和英辞書
宇野重吉[うの じゅうきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

宇野重吉 : ウィキペディア日本語版
宇野重吉[うの じゅうきち]

宇野 重吉(うの じゅうきち、 1914年9月27日 - 1988年1月9日)は日本俳優演出家映画監督。本名は寺尾 信夫(てらお のぶお)。
第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。芸名は、中野重治鈴木三重吉に由来している。俳優の寺尾聰は長男。
== 来歴 ==
1914年(大正3年)9月27日福井県足羽郡下文殊村(現在の福井市太田町)に生まれる。生家は農家で裕福だったが、4歳の時に父が亡くなると家運が傾き、母に連れられて福井市に移る〔キネマ旬報1979、p.81〕。旧制福井中学(現在の福井県立藤島高等学校)に進学するが、学資が続かず3年の1学期で中退。横浜巡査をしていた次兄を頼って行くが、大不況のため仕事がなく、一旦福井に戻って姉の婚家の機屋で働く〔。そのうち上京して早稲田工手学校を卒業。この間にマルクス主義の影響を受け、日本大学芸術科に入る〔。築地小劇場に通ってプロレタリア演劇に感激するうち芝居の世界に入ろうと考える〔。
1932年(昭和7年)、プロレタリア演劇研究所に入所、半年後の1933年(昭和8年)5月に滝沢修久保栄らの東京左翼劇場に参加する〔宇野重吉 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年10月10日閲覧〕。同年、木村荘十二監督の『河向ふの青春』で映画に初出演する。1934年(昭和9年)、新協劇団の結成に参加、『どん底』のペペル、『火山灰地』の泉治郎の演技で評判を呼ぶ〔〔佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』、日外アソシエーツ、2007年、p.93〕。1940年(昭和15年)8月19日治安維持法違反で投獄されるが、1942年(昭和17年)からは日本移動演劇連盟加盟の瑞穂劇団を組織して全国の農村漁村を巡演する〔。1943年(昭和18年)に応召され、ボルネオで終戦を迎える〔。
1947年(昭和22年)7月28日、滝沢・清水将夫らと第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を創設。1949年(昭和24年)に劇団内の対立で解散した後、1950年(昭和25年)12月22日劇団民藝(第二次民藝)を創立してその中心的指導者となり、俳優座文学座と並ぶ代表的な新劇団に育て上げる〔〔キネマ旬報1979、p.82〕。モットーは「芝居でメシの食える劇団」。舞台の代表作に『ゴドーを待ちながら』のウラジミール、『夕鶴』の与ひょうの他、『わが魂は輝く水なり』『タナトロジー』『エレジー』などがあり、1959年(昭和34年)の『運命』からは演出家としても活躍し、『三人姉妹』『イルクーツク物語』『子午線の祀り』などを上演している。1971年(昭和46年)には「劇団は創立者だけの物である」という劇団一代論を発表して演劇界に衝撃を与えた。
戦後から映画にも多く出演するようになるが、本格的な映画出演は1948年(昭和23年)の吉村公三郎監督『わが生涯のかがやける日』で、翌1949年(昭和24年)の木村恵吾監督『痴人の愛』が映画初主演となった〔。一連の新藤兼人監督作品に出演しており、新藤のデビュー作『愛妻物語』や『第五福竜丸』などに主演した。真面目で善良で庶民的な人物を演じることが多いが、山本薩夫監督の『金環蝕』では珍しく悪役を演じている。この時宇野は悪役らしくするために乱杙歯のつけ歯をつけ、出っ歯にして役に挑んだ。また、1954年(昭和29年)に製作再開した日活五社協定の締め出しによって出演俳優不足に悩んでいた際は民藝と提携契約を結ばせ、多くの劇団俳優を日活映画に出演させて、自身も多くの日活映画に出演した。石原裕次郎との友情はこの時代から石原の死に至るまで続いた。1956年(昭和31年)には『病妻物語 あやに愛しき』で映画監督業にも進出し、『われは海の子』『倖せは俺等のねがい』『硫黄島』と計4本の作品を発表している。
1985年(昭和60年)9月からは、宇野重吉一座を立ち上げ、気軽に芝居を観に劇場に来られない地方の人のために、全国縦断の地方公演を始める。木下順二作『三年寝太郎』などの民話劇を上演するが、左肺を癌に冒され、1987年(昭和62年)3月に摘出手術を受ける〔宇野重吉さん死去【1988年1月10日付福井新聞】 福井新聞、2015年10月10日閲覧〕。5月に退院後、医師の反対を押し切って6月の大阪枚方市での公演から舞台に復帰。点滴を受け、幕間で酸素吸入をしながら地方公演を終わらせた〔。同年12月には三越劇場で自ら演出の『馬鹿一の夢』に主演するが、これが最後の舞台となった。
1988年(昭和63年)1月9日正午、肺がんのため東京都渋谷区榊原記念病院で死去〔。。2月10日青山葬儀所で民芸葬が行われ、滝沢が葬儀委員長を務めた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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