翻訳と辞書
Words near each other
・ 有坂来瞳
・ 有坂直樹
・ 有坂砲
・ 有坂秀世
・ 有坂美裕
・ 有坂美香
・ 有坂翔太
・ 有坂英世
・ 有坂誠人
・ 有坂道子
有坂銃
・ 有坂長次
・ 有坂隆祐
・ 有坂隆道
・ 有坂須美
・ 有城
・ 有城南バスストップ
・ 有報
・ 有壁バイパス
・ 有壁地区テレビ中継局


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

有坂銃 : ミニ英和和英辞書
有坂銃[ありさかじゅう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [じゅう, つつ]
 【名詞】 1. gun (barrel) 

有坂銃 : ウィキペディア日本語版
有坂銃[ありさかじゅう]

有坂銃(ありさかじゅう)とは、日本のボルトアクション方式の制式小銃の系列であり、それまでの村田銃系列の小銃を更新する為に1897年より製造が始まり、第二次世界大戦が終結する1945年まで製造された一連の小銃をさす。欧米圏ではアリサカ・ライフル (Arisaka rifle) とも呼ぶ。最も一般的な有坂銃は6.5×50mmセミリムドの三十八年式実包を用いる三八式歩兵銃及び、現代の.308ウインチェスター弾に匹敵する威力を持つ7.7×58mmリムレスの九九式実包を用いる九九式短小銃である。九九式及び他の多くの有坂銃の亜種は、ほとんどは連合国軍最高司令官総司令部の命令により廃棄処分されたが、何千挺かはアメリカ軍の兵士の手により戦地にて鹵獲され、戦利品として第二次大戦後にアメリカ合衆国へともたらされた。
==歴史==

有坂銃は有坂成章大佐(後年中将に昇進)により設計され、1907年、彼はこの功績により明治天皇から男爵位を与えられた。有坂銃は様々な戦争の間に幾多の改良や派生型の開発が行われた。その一つが6.5mm実包の三八式から、より大口径の7.7mm実包の九九式への移行であり、もう一つは、2つの主要部分に分解可能な、空挺兵空挺作戦に携行する為のテイクダウンライフルの開発であった。
戦後の素材調査により、有坂銃のボルト(槓桿)とレシーバー(機関部)は、SAE鋼材規格 No.1085に類似した0.80%から0.90%の炭素、0.60%から0.90%のマンガンを含む炭素鋼である事〔Hatcher p. 231〕が判明し、破壊試験において有坂銃はスプリングフィールドM1903リー・エンフィールドモーゼルのどれよりも強度が高い事が証明された〔Hatcher p. 206〕。初期に生産された九九式は、伏撃ちでの命中精度を高める目的でワイヤー製のモノポッド(単脚)が装備され、リアサイト(照門)には航空機への対空射撃に適した角度を執る為の水平照尺が装備された。第二次世界大戦末期の終末(代用)型(ラストディッチ・モデル)は製造コストの削減の為に様々な変更が行われ、旧日本軍の末期の装備を象徴する物となった。例えば、初期生産型の卵形のボルトハンドルはより小さく実利的な円筒形に変更され、銃身(バレル)の上のハンドガードは省略された。また、照門は固定式のオープンサイトとされた。
軍用ボルトアクションの機構を持つ有坂銃は、大日本帝國陸軍大日本帝國海軍にて用いられ、第二次世界大戦以前にはイギリス海軍ロシア帝国陸軍フィンランド陸軍THE FINNISH ARISAKAS - Rifle Database 〕、アルバニア陸軍でも使用された。中でも、ロシア革命時のチェコ軍団はほぼ全軍が三十年式や三八式で武装していた。第二次大戦中に鹵獲された多くの有坂銃が戦後も大韓民国中国タイ王国カンボジアなどで使用されたが、1945年日本の降伏と共に突如として全ての小銃と実包の生産が停止した事から、有坂銃はすぐにより新しい銃に置き換えられる形で姿を消していった。ほとんどの大日本帝國の兵器が東京湾に投棄された事から、予備の弾薬もすぐに枯渇する事となった。しかし、中国では鹵獲した有坂銃を使用する為に6.5×50mmSR弾の製造が続けられた。
制式採用された全ての軍用有坂銃には、インペリアル・シール(Imperial Ownership Seal)または、16花弁のキク属を模した十六八重表菊(菊花紋章、欧米ではクリサンセマムまたは単にマムとも)が、レシーバー上部に刻印されていたが、しばしばこの紋章は鑢掛け、削取り、圧搾等の手段により毀損された状態となっている。これには、武装解除に当たって日本軍側から有坂銃の引き渡し条件として提示されたとする説、或いはアメリカ兵が戦利品として戦場より持ち帰る際に削り取るようにアメリカ軍内で指導されたとする説の相反する主張が存在するが、公的には日本軍、米軍双方とも紋章の毀損を要求した公文書は残されていない。紋章が現存する有坂銃のほとんどは日本国内の展示施設に現存するもので、ごく少数が武装解除前に戦利品として獲得されたものや、中国軍により鹵獲された経歴を持つものとして海外の銃器市場に残されている。中国で鹵獲された有坂銃のいくらかは、その後アメリカ合衆国へ輸出された。その中には薬室を7.62x39mm弾に改造された三八式騎銃なども含まれていた。この改造を施された三八式騎銃は非公式にType 38/56カービンと呼ばれている〔Japanese Weapons - Rifle Database 〕。一方、国民党軍により鹵獲された三八式のいくらかは、7.92×57mmマウザー弾用に改造された。この改造を施された三八式騎銃はレシーバーが幾らか切り取られた事で元の刻印が無くなった為、新たに七九二式なる型式が刻印されている。
菊花紋章は多くは完全に削り落とされたが、いくつかは単にで表面を荒らされたり、で引っ掻き傷を付けられただけか、またはで何度も菊花の外周を打ち付けられて0の数字を描くような模様を上書きされたものも存在した。後者は通常、日本軍の軍務から退役した(即ち、皇室財産で無くなった)有坂銃に対して用いられた手法で、学校教練向けに貸与されたり他国向けに販売された銃にも適用されており、実際に英国海軍の陸上部隊は第一次世界大戦にてSMLE Mk.Iが配備されるまではこのような三八式を用いていた。
ごく少数ではあるが、三八式は1910年にメキシコ合衆国への輸出向けに製造され、菊花紋章の替わりにメキシコの国章が刻印された。しかし、その多くはメキシコ革命には間に合わず、余剰分は第一次世界大戦期に帝政ロシアへと売却された。輸出総数はメキシコへ50万挺、ロシアへは60万挺余りとされる〔「鉄砲の安全(その2)」264頁〕。帝政ロシアには三八式以外にも三十年式や三十五年式も幾らか売却されたと見られ、ソビエト連邦となった後に勃発したスペイン内戦にて、スペイン人民戦線側に7.92×57mmマウザー弾に改造されて供給されたものが現存している〔。また、1923年から1928年に掛けて、タイ王国向けに8×52mmR弾仕様の三八式歩兵銃である66式小銃が、約5万挺輸出された〔Siamese Mauser Followup - the Type 66 Rifle - Forgotten Weapons 〕。66式のレシーバーにはタイ王国軍の紋章であるチャクラが刻印されている。
有坂銃は日中戦争(支那事変)勃発以降、中国国内の武器工廠でコピー製造されたものも若干存在し、米国市場に比較的程度の良い物が現存している。中でも日本軍支配地域の工廠で製造された北支一九式小銃は、大戦末期の武器不足を補う為、後備部隊に配備されたという証言が残っている〔第一軍の「兵器引継書」に見る終戦時の状況 - 日華事変と山西省 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「有坂銃」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.