翻訳と辞書
Words near each other
・ 暦年齢
・ 暦応
・ 暦改正
・ 暦数
・ 暦日
・ 暦書 (ノストラダムス)
・ 暦月
・ 暦本
・ 暦法
・ 暦法の一覧
暦法改革
・ 暦法論
・ 暦注
・ 暦注下段
・ 暦物語
・ 暦物語 (西尾維新)
・ 暦算
・ 暦算天文学
・ 暦術
・ 暦表時


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

暦法改革 : ミニ英和和英辞書
暦法改革[れきほう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

暦法 : [れきほう]
 (n) calendar making
: [ほう]
  1. (n,n-suf) Act (law: the X Act) 
: [かい]
 (n-suf) revision
改革 : [かいかく]
  1. (n,vs) reform 2. reformation 3. innovation 
: [かわ]
 【名詞】 1. skin 2. hide 3. leather 4. fur 5. pelt 6. bark 7. shell 

暦法改革 ( リダイレクト:改暦 ) : ウィキペディア日本語版
改暦[かいれき]
改暦(かいれき)とは、
#改良を目的として、使用している暦法を、改正ないし更新し、新しい暦法に改めること(例:1873年の日本における太陰太陽暦天保暦から太陽暦グレゴリオ暦への「明治改暦」)。また、現在世界で広く使われているグレゴリオ暦であるが、19世紀末から20世紀初頭を中心に改良案が提案され、現在も検討しているグループなどがある。
#日本の歴史上、宣明暦の時代に、吉凶や日数・誤差調整などを理由として月の大小や閏月を人為的に操作したことがあり、その操作のこと。
本項では、暦法の改暦(グレゴリオ暦の改良案も含む)と宣明暦の改暦について、併記して解説する。
== 暦法の「改暦」 ==

=== 概要 ===
通常改暦と呼ばれているものは、不正確である旧来の暦法を改めて新種の暦法を採用することを指す。
古くは、生活に密着した月の運行によって決められた「日」と「月」に太陽の動きに由来する「年」を組み合わせた太陽太陰暦を使っている地域が多かった。だが、正確な太陽年朔望月を観測する技術が確立していなかったこと、加えて正確な太陽年と朔望月と1日の間に相関性がない(平均太陽年=365.24219日・平均朔望月=29.530589日)ために正確な暦を作成するためには複雑な計算が必要であり、それをもってしても実際の天体の動きとの不一致は避けられなかったために、それを修正するためにより正確な暦法への変更を目指した改暦が行われた。
ヨーロッパにおいては、紀元前45年ローマ暦から改暦された太陽暦であるユリウス暦は月の動きを暦に反映させない代わりに比較的正確な暦となったために、以後これが主流となったが、その後1582年にユリウス暦に替わってグレゴリオ暦が採用され、以後ヨーロッパ勢力の世界進出に伴い、世界的に用いられるようになった。
一方、中国では観象授時思想により、皇帝が「時を支配する」存在として位置づけられ、暦法は「国家の大典」と位置づけられていた。従って中国における暦法の改暦は、単なる暦法の改訂のみならず、太陽・月・惑星の現象を数理的に取り扱ってその天文定数及び計算表を算定して改変するまでが改暦であった。このため、日食月食予想の正確性や惑星の動きまでが暦に織り込まれることになった。そのため、王朝交代の度に改暦が行われ、後には新皇帝の即位を機に新政治の開始を内外に宣伝する一環として改暦が行われる場合もあった。また、改暦の成功は宮廷の暦学者にとっては大きな功績としてその後の立身出世にも関わるために、機会に乗じて皇帝に改暦を促したのも改暦の要因の1つと言われている。
日本の太陰太陽暦は最初は中国からの移入で対応していた。最初の暦である元嘉暦の導入時期は不明であるが、文武天皇元年(697年)に儀鳳暦(唐の麟徳暦)への最初の改暦が行われた。続いて天平宝字8年(764年)には大衍暦が導入された。貞観4年(862年)に宣明暦に改暦されて以後、遣唐使の廃止による日中の公的交流の断絶、暦道家学化・保守化によって以後改暦は行われなくなった。なお、大衍暦の末期には同じ中国の暦である五紀暦が併用され、平安時代中期には非公式に符天暦が参考にされたことがあるものの、宣明暦採用から823年間にわたって同一の暦が使用され続けた。宣明暦も800年以上にわたって続けられたために実際の天体の動きよりも2日間も差が生じたために改暦論が起こった。当初は授時暦の移入が検討されたが、渋川春海が地理的問題などから授時暦の中国暦の直接的移入は不可であると唱えてこれに独自の修正を加えた日本最初の国産の和暦貞享暦を作成した。貞享元年(1684年)に勅許を得た貞享暦は翌貞享2年(1685年)に施行された。その後、宝暦5年(1755年)に宝暦暦寛政10年(1798年)に寛政暦天保15年(1844年)に天保暦に改暦が行われた。これらは全て太陰太陽暦である。明治維新を機に改暦論が出された。天保暦の精度そのものは既にヨーロッパのグレゴリオ暦の水準に匹敵していたが、明治政府は明治5年11月9日1872年12月9日)に突如明治天皇詔書太政官布告337号を発し、明治5年12月3日をもって新暦(グレゴリオ暦)の明治6年1月1日とすることを宣言した。これは幕末洋学者による太陽暦改暦論の存在や欧米諸国との関係の拡大という現実を考えた場合には適切な判断であったが、その一方で1000年以上の長期にわたり月の満ち欠けに従って毎月の生活リズムを形成してきた多くの一般の日本人の前に月の満ち欠けとは全く無関係な新たな暦が出現する事となり、人々に動揺を与えた。これは、かつて『天経或問』で太陽暦のことを知った貞享暦の改暦者・渋川が月の満ち欠けを無視した太陽暦の暦法を「怪異の甚し、蓋し蛮人之異毒か」と糾弾しており、150年前とはいえ専門家ですら受け入れられなかった暦法を突然押し付けられた一般民衆からすれば無理の無い話であった。そのため、改暦直後は新暦と旧暦が両方用いられるなどの混乱が生じた。ともあれ、この明治6年(1873年)1月1日以後、欧米と同じグレゴリオ暦が採用されて、今日まで日本の暦法として用いられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「改暦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Calendar reform 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.