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旭日丸 : ミニ英和和英辞書
旭日丸[あさひまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさひ]
 (n) morning sun
旭日 : [きょくじつ]
 (n) rising sun
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

旭日丸 : ウィキペディア日本語版
旭日丸[あさひまる]

旭日丸(あさひまる)は、江戸時代末期に幕府の命で水戸藩が建造した西洋式帆船である。日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつであった。幕府海軍で使用され、明治維新後も輸送船として実用された。本船のために開設された石川島造船所は、「千代田形」の建造などを経て発展し、IHIの起源となっている。
== 建造の経緯 ==
1853年7月(嘉永6年6月)の黒船来航で、大型の西洋式軍艦が容易に沿岸まで侵入できたことに脅威を感じた江戸幕府は、海防体制の強化を図るため西洋式軍艦の整備を図ることにした。そして、オランダからの輸入とともに、大船建造禁止令を解除して国産を進めることにした。老中阿部正弘海防参与徳川斉昭(前水戸藩主)は、初めは江川英龍に建造させることを計画したが、江川が砲台の建設や大砲の生産で余力が無かったため、水戸藩が建造を行うことになった。同年9月11日(嘉永6年8月8日)に内命が下った〔安達(2001年)、39-40頁。〕。なお、同時期に浦賀奉行所へも「鳳凰丸」の建造が命じられているほか、薩摩藩は「昇平丸」などを建造中であった。
水戸藩は、徳川斉昭の指導の下、西洋式軍備の導入において先進的な藩であった。洋式船建造に関しても、すでに天保12年(1841年)に「快風丸」の再建名目で、半洋式の大型船建造を企画したことがあった〔。この計画は幕府から許可が下りなかったが、同年にバッテラpt:Bateira)と呼ばれる小型の洋式船2隻を那珂湊で密造している。
まずは、小石川の水戸藩邸で、水戸藩お抱えの蘭学者である鱸半兵衛を中心に、オランダの造船書などの翻訳と、それにもとづく雛型(縮小模型)の製造が進められた。雛型製作は、当時の日本での洋式船建造において多用された手法であった〔。1853年11月30日(嘉永6年10月30日)に雛型は将軍徳川家定以下に供覧された。
1853年12月12日(嘉永6年11月12日)に正式な建造命令が幕府から下され、翌1854年1月30日(嘉永7年1月2日)に幕府直轄地の隅田川河口に水戸藩が整備した石川島造船所(IHIの起源)で起工式が行われた。1855年に船体ができて進水したが、水深が浅かったために着底して横倒しになってしまい、オランダの書物を参考に廻船で浮力を増すことでなんとか復元できた。進水の際の不手際から、江戸の町民たちから厄介丸と揶揄された。栗本鋤雲によると、「動かざる御代は動きて 動くべき船は動かぬ 見と(水戸)も無き哉」という落首が詠まれたという〔。その後、横浜に回航されて艤装工事が行われ、着工から約2年半経った1856年6月頃(安政3年5月)に竣工、「旭日丸」と命名された〔船の科学館(2003年)、「水戸藩建造の洋式軍艦“旭日丸” 」〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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