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斎藤義重 : ミニ英和和英辞書
斎藤義重[さいとう よししげ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とき]
 【名詞】 1. meals exchanged by parishioners and priests 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

斎藤義重 : ウィキペディア日本語版
斎藤義重[さいとう よししげ]

斎藤 義重(さいとう よししげ、1904年5月4日2001年6月13日)は、青森県弘前市出身の現代美術家多摩美術大学教授。親しみをこめて「さいとう ぎじゅう」と読まれることもある〔『ブリタニカ国際大百科事典』や『日本人名大辞典』や『世界大百科事典』や『日本大百科全書』は項目名の読みを「さいとうよししげ」と、『世界芸術家辞典 2010年改訂版』は項目名の読みを「さいとうぎじゅう」としている。〕。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した〔。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた〔。
== 生涯 ==

=== 幼年期 ===
1904年5月4日、青森県弘前市に生まれた〔斎藤義重 作品7 二重構造性が示す実存「千葉成夫」 artscape, 2014年3月15日〕。本籍は東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)〔斎藤義重 東京文化財研究所(日本美術年鑑)〕。なお、本人は東京出身であるとも青森出身であるとも語ったことがあり、かつては文献によって出生地に揺らぎがあった〔東奥日報, 2002年11月2日夕刊〕。父親の斎藤長義は南部藩士の家に生まれた陸軍軍人(騎兵小将〔末永照和「ゼロの造形」『みずゑ』880号, 1978年, pp.48-59〕)であり〔、陸軍第8師団が設置されていた弘前市は父親の赴任地である。義重は7人兄弟姉妹の次男(兄1人・姉2人・妹2人・弟1人)だった。
4歳だった1908年には父親の陸軍第14師団転属に従って栃木県宇都宮市に転居し、栃木県尋常師範学校付属幼稚園(現・宇都宮大学教育学部付属幼稚園)に通った。この頃の父親の書斎にはヨーロッパ建築やヨーロッパ絵画の絵葉書などがあり、斎藤は幼い頃から美術に興味を示した〔。1911年には父親の異動にともなって東京市(現・東京都)新宿区市谷加賀町に転居、その後かつて島村抱月が住んでいた新宿区市谷薬王寺町の家に移り、東京市牛込尋常小学校(現・新宿区立牛込仲之小学校)に入学した。小学校高学年から中学時代には、たびたび『アントニオとクレオパトラ』や『クオ・ヴァディス』などのイタリア映画、『ジゴマ』などのフランス映画、黎明期のハリウッドの連続映画などを鑑賞している〔横浜美術館学芸部(1993), pp.20-23〕。青年期の1920年代にはチャールズ・チャップリンよりもバスター・キートンを好んだが、尾上松之助などの人気が高かった邦画には関心を示さず、映画に関しては友人たちと会話にならなかったという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「斎藤義重」の詳細全文を読む




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