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文久改革 : ミニ英和和英辞書
文久改革[ぶんきゅう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [かい]
 (n-suf) revision
改革 : [かいかく]
  1. (n,vs) reform 2. reformation 3. innovation 
: [かわ]
 【名詞】 1. skin 2. hide 3. leather 4. fur 5. pelt 6. bark 7. shell 

文久改革 ( リダイレクト:文久の改革 ) : ウィキペディア日本語版
文久の改革[ぶんきゅうのかいかく]

文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。安政7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷公武合体公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。
== 経緯 ==
幕政の改革は、鎖国体制から開国への移行に伴う尊王攘夷運動の激化、将軍継嗣問題を巡る一橋派南紀派の対立などの政治的混乱の中で、薩摩藩主・島津斉彬越前藩松平慶永ら、開明的な大名らの間ではつとに必要性を叫ばれていた。しかし、島津斉彬の急死及び大老井伊直弼による安政の大獄における改革派の弾圧などにより頓挫していた。
兄・斉彬の死後、藩主となった実子の島津茂久(忠義)を補佐する国父(副城公)の立場となった島津久光は、兄の遺志を継ぎ、兄の果たせなかった率兵上京を敢行し、朝廷から勅使を出させることで幕政の改革を推し進めようと図った。文久2年(1862年)3月16日鹿児島を発した久光の軍勢は4月13日に入京する(以後、すべて日付は旧暦による)。藩主の父ではあるが、外様大名でしかも無位無官である「島津三郎」が兵を率いて京へ入り、幕府に無断で公家と接触するなどという事態は、幕府健在の頃であれば許されざる暴挙であったが、桜田門外の変以来権威の失墜しつつあった幕府体制にそれを阻止する力はなかった〔当時の一般的な序列では、ある藩の藩主の父でその藩の所属であり前藩主でもない人物は、その藩の一門家老と同格、つまり陪臣ということになる。〕。
一方、京都で勢力を高めつつあった尊王攘夷派の志士ら過激な下級武士・浪士は、久光の率兵上京を朝廷主導による武力での尊王攘夷実現・幕府打倒の先兵であると誤解していた。久光の真意は、あくまで幕政の改革・公武一和であったため、これら志士たちとの間に摩擦を生じ、自藩の急進派有馬新七らの粛清を命じた(寺田屋事件、4月23日)。
久光は権大納言近衛忠房議奏中山忠能正親町三条実愛らの公家に工作を働きかけ、建白書を提出した。その内容は、安政の大獄の処分者の赦免および復権、前越前藩主・松平慶永の大老就任、一橋慶喜将軍後見とする、過激派尊攘浪士を厳しく取り締まる、などからなっていた。久光の建白は孝明天皇に受け入れられ、5月9日、勅使として大原重徳江戸へ派遣することが決定された。勅書は久光の意見が大幅に取り入れられたものとなった。
6月7日、久光ら薩摩兵1000人〔この人数は藩主とほぼ同格のもので、これも藩主の父というだけの無位無官の人物の行列としては幕府健在の頃なら許されない規模であった。〕が随行して大原重徳は江戸へ入り、幕府との交渉を開始する。それまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革の指示が下るという前代未聞の事態に幕府内は混乱するが、結局その大部分を受け入れざるを得なかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「文久の改革」の詳細全文を読む




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