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慶應義塾體育會蹴球部 : ミニ英和和英辞書
慶應義塾體育會蹴球部[けいおうぎじゅくたいいくかいしゅうきゅうぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

慶應義塾 : [けいおうぎじゅく]
 (n) Keio (Private University)
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
義塾 : [ぎじゅく]
 【名詞】 1. private school 
: [じゅく]
 【名詞】 1. coaching school 2. lessons 
蹴球 : [しゅうきゅう]
 【名詞】 1. football 2. soccer
: [たま, きゅう]
 【名詞】 1. globe 2. sphere 3. ball

慶應義塾體育會蹴球部 : ウィキペディア日本語版
慶應義塾體育會蹴球部[けいおうぎじゅくたいいくかいしゅうきゅうぶ]

慶應義塾體育會蹴球部(けいおうぎじゅくたいいくかいしゅうきゅうぶ)は、慶應義塾大学ラグビー部である。関東大学ラグビー対抗戦Aグループに所属し、全国大学タイトル計5回(東西対抗2回、選手権3回)、日本選手権優勝1回などの実績がある。
== 概要 ==
日本で初めてのラグビーチームとして知られ、日吉のグランドにはラグビー発祥の地として記念碑が建てられている。チームの歴史は1899年明治32年)、当時慶應義塾の英文学教員であったイギリス人エドワード・B・クラークケンブリッジ大学留学から戻った田中銀之助とともに、慶應義塾の学生達に指導したことに始まる。当時チームは、麻布仙台坂の坂下にあった「仙台原」と呼ばれる野原を練習場としていた〔「仙台坂」 石川悌二 『江戸東京坂道辞典コンパクト版』(新人物往来社) 平成15年9月20日発行〕。
部の名称はかつて、ラグビーが「蹴球」と呼ばれていたことに由来する。現代では「蹴球」とはサッカーのことを指すことが多いが、改名は行われていない。ちなみに慶應義塾のサッカー部はソッカー部の名称になっており、「蹴球」の名称を使用していない(詳細は慶應義塾体育会ソッカー部を参照)。
早稲田大学との慶早戦は毎年、勤労感謝の日に行われ、秩父宮ラグビー場を満員にし、NHKの中継もある。ジャージが黒黄の縞のことから、タイガー軍団とも呼ばれる。「魂のタックル」といわれる泥臭いスタイルが特徴。近年はBKに好選手を擁し、ワイドな展開ラグビーを行っている。
1984年昭和59年)度に対抗戦を全勝で優勝し、大学選手権では決勝に進出。史上初の大学選手権3連覇を狙う同志社大学と対戦し、6-10で敗れる。この決勝では4点差の終了間際、慶應の村井大次郎がディフェンスラインを突破、同志社のインゴール中央左に飛びこんで同点(当時、トライは4点であった)、さらに正面からのゴールキックを得てほぼ逆転なったと思われたが、直前の松永敏宏からのパスがスローフォワードの反則をとられて幻に終わり、結局最終スコアで決着した。この判定は、選手権の決勝というビッグゲームであったこと、試合の帰趨を直接に決するものだったこと、またジャッジングそれ自体が非常に微妙で難しいものだったことなどから議論を呼ぶことになった。
1985年昭和60年)度には対抗戦4位ながら、大学選手権で2年連続決勝に進出し明治大学と対戦。12-12の引き分けで両校優勝となる。抽選の結果、日本選手権に進出し、トヨタ自動車と対戦。18-13で勝利し、初の日本一に輝いた(このときの監督は上田昭夫)。
それ以降はしばらく低迷したが、1998年平成10年)度には13年振りに大学選手権に出場。準決勝に進出し、明治大学と対戦したが、ロスタイムに逆転を許し18-24で敗退した。
1999年平成11年)度にはラグビー部創設100周年を迎え(監督は上田昭夫)、高田晋作・栗原徹・野澤武史等の活躍により、対抗戦を全勝優勝。大学選手権では決勝で関東学院大学を27-7で破り、通算3度目(単独では初。過去2回は同点両校優勝)の大学日本一を経験している。
2000年平成12年)度も対抗戦を全勝優勝し、大学選手権2連覇の期待が高かった。しかし、準決勝で強風と法政大学の激しいタックルのためにリズムを崩し(法政の度重なるハイタックルなどの反則も含む。この試合は法政3人・慶應1人にシンビンが出る荒れた試合であった)、13-15で敗退した。なお同年度以降対抗戦優勝から遠ざかっている。
2007年平成19年)度には山田章仁・中浜聡志・小田龍司・出雲隆佑などBKに好選手を擁し、6年ぶりに大学選手権準決勝に進出し、明治大学と対戦。34-27で初めて大学選手権で明治を破った(この年度、明治と2度対戦し、2引き分け<春の招待試合:31-31・対抗戦:29-29>で、3度目の対戦であった)。そして8年ぶりに決勝に進出し、1968年度以来、39年ぶりに決勝で早稲田大学と対戦したが、6-26で敗れ準優勝に終わった。これ以降3度準決勝に進出したが、いずれも東海大学帝京大学に敗れ決勝進出を逃している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「慶應義塾體育會蹴球部」の詳細全文を読む




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