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後藤宙外 : ミニ英和和英辞書
後藤宙外[ごとう ちゅうがい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ちゅう]
 【名詞】 1. space 2. air 3. midair 
: [そと, ほか, げ, がい]
 【名詞】 1. other place 2. the rest 

後藤宙外 : ウィキペディア日本語版
後藤宙外[ごとう ちゅうがい]

後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日〔宙外の戸籍上の生年月日(慶応2年12月22日)をウィキペディア「慶応」に依って西暦換算すると、慶応2年12月1日はグレゴリオ暦1867年1月6日にあたるため、それに21を足して1月27日となる。〕(慶応2年12月22日〔「明治十九年に宙外が覚え書として書いている自叙略伝によれば(中略)慶応二年寅の十二月二十四日に生る故をもって通称虎之助と言う。(中略)とある。誕生日の日は戸籍には十二月二十二日とあり、また昭和十一年に史蹟保存の功労者として文部大臣から表彰を受けた時の履歴書には、自ら二十三日と書いているが、伝えるところでは家例の媒払いの日であったとか、すれば二十四日が正しいであろう。」(後藤 1967年、p.49)。〕〔後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)pp.49-53。
〕) - 1938年昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家評論家。本名寅之助。
== 生涯 ==
1867年1月27日(慶応2年12月22日)、出羽国仙北郡払田村(現在の秋田県大仙市払田)に三郎右衛門、サダの次男として生まれる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している〔後藤 1967年、p.49。〕。後藤家は元豪族の旧家であったが、三郎右衛門の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷〔日本近代文学大事典 1984、p.599。〕。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。その後文学科に転じ、卒業論文に山田美妙尾崎紅葉幸田露伴を論じる〔畑実「後藤宙外―その初期の一断面」(「駒澤大學文學部研究紀要」28、1970年)pp.24-34。
〕〔論文表題は「散文詩の精髄を論じて美妙、紅葉、露伴の三作家に及ぶ」(後藤 1967年、p.51)。のちに、逍遙の推薦により、序論と美妙論を梗概化し、後半の紅葉、露伴論を中心に「美妙、紅葉、露伴の三作家を評す」として「早稲田文学」に掲載し、明治33年、『風雲集』(島村抱月、後藤宙外、伊原青々園 共著。春陽堂)に収録された(畑 1970、pp.25-26)。〕。1894年(明治27年)に卒業後は、坪内逍遙の推挽により「早稲田文学」彙報欄の記者となり〔村松 1970、p.41。〕〔村松定孝「〈資料〉泉鏡花逸文三篇」(「上智大学国文学論集」4、1970年)pp.40-57。〕、1895年(明治28年)、「早稲田文学」に『ありのすさび』を発表した。1897年(明治30年)に島村抱月小杉天外伊原青々園水谷不倒と共に「丁酉文社(ていゆうぶんしゃ)」を結成、「新著月刊」を刊行し〔後藤宙外「『新著月刊』発行とその環境」(「早稲田文学」240号、1926年1月。十川信介 編『明治文学回想集』(下)、岩波書店、1999年2月、pp.294-307)。ISBN 4003115821〕、評論集『風雲集』を共著した。
1900年(明治33年)、春陽堂に入社し、「新小説」編集主任となる。1901年(明治34年)5月、福島県北会津郡猪苗代湖畔に家を建て、そこから月に1週間ほど上京して編集の事務にあたるという生活を、1907年(明治40年)10月鎌倉に移り住むまで続けた〔伊藤整「解題 後藤宙外」(『明治文学全集』第65巻、小杉天外・小栗風葉・後藤宙外集、筑摩書房、1968年)pp.419-421。ISBN 4480103651〕。「新小説」には正宗白鳥の『寂寞』、夏目漱石の『草枕』、田山花袋の『蒲団』、岩野泡鳴の『耽溺』などの問題作が掲載された。
作家としては、明治30年代前半(1900年前後)あたりから、尾崎紅葉、泉鏡花らとの親交を深め〔徳田秋声「予が半生の文壇生活」(「新潮」1912年1月号。『徳田秋聲全集』第19巻、八木書店、2000年11月、pp.269-274)。ISBN 4840697191〕、『ありのすさび』のような《深刻小説》や、政治小説『腐肉団』(1899年/明治32年)などの《社会小説》傾向の作風から、硯友社風の作風に転じ、言文一致による写実文学の潮流には最後まで与しなかった〔畑 1970年、p.33。〕。
1907年(明治40年)、田山花袋が『蒲団』を発表すると、『非自然主義』(1908年/明治41年)を書いて反自然主義の立場を取る。1909年(明治42年)1月、鎌倉から東京市芝区へ転居後、同年2月より「寸鉄」という欄を「新小説」に設けて反自然主義の旗印を掲げ、同年4月には泉鏡花や登張竹風笹川臨風らと「文芸革新会」を結成〔手塚昌行「文芸革新会をめぐる反自然主義思潮」(「明治大正文学研究」24、東京堂、1958年6月)pp.80-92。〕〔伊藤整『日本文壇史』14「反自然主義の人たち」講談社文芸文庫、1997年2月。pp.114-124。ISBN 4061975544〕、各地で講演会を催した〔「東京、浜松、宇都宮、宇治山田、三重、名古屋で講演会を催したりした」(村松 1970、p.41)。〕が、時代の流れに逆らうにとどまった〔千葉 1980、p.63。〕〔千葉三郎 編『後藤宙外―目で見るその生涯』後藤宙外翁顕彰会、1980年10月。〕。1910年(明治43年)、春陽堂を退社してのちは、次第に文壇から遠ざかった。
1914年(大正3年)5月に秋田時事社長として秋田に赴任、秋田市保戸野に居住、翌1915年(大正4年)4月、同社の社長を辞任し、仙北郡六郷町大町に移り住んだ。1919年(大正8年)春には推挙されて六郷町長に就任し、2期8年務めた〔千葉 1980、pp.127-132、後藤宙外年譜(後藤稜次郎 作成)。〕。この間、東北地方の考古学・史学の研究に没頭し、払田柵跡に注目、調査研究につとめる。1929年(昭和4年)から翌年にかけて『仙北郡高梨村拂田柵址略図』を作成した〔千葉 1980、p.99。実物図版。〕。
1938年(昭和13年)6月12日、福島県猪苗代湖畔の別荘で脳卒中により死去。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「後藤宙外」の詳細全文を読む




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