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後涼 : ミニ英和和英辞書
後涼[こうりょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 

後涼 : ウィキペディア日本語版
後涼[こうりょう]

後涼(こうりょう、拼音:Hòu-liáng、384年 - 403年)は、中国五胡十六国時代族出身の呂光によって建てられた国。
== 歴史 ==

=== 建国期 ===
建国者の呂光は、同じく氐族出身の苻氏が建てた前秦の建国以来の功臣として、数々の武功を立てていた。前秦の最盛期に苻堅東晋の征討を図った時、呂光は都督西討諸軍事に任じられ、西域遠征を命じられた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P128〕。383年1月に遠征に出発して、河西回廊を進軍し、384年7月亀茲の征討に成功した〔。この時、既に西域に広く令名をはせていた鳩摩羅什をその庇護の下に置いた。実は釈道安より鳩摩羅什の盛名を聞いていた苻堅が、呂光に対して亀茲を支配下に置いた時は鳩摩羅什の身柄を確保するよう命じていたという。呂光はさらなる西征を行おうとしたが、配下の将兵の希望と鳩摩羅什の進言により、呂光は更に西の地方への進軍を諦め帰還を決断した〔。ところが高昌太守の楊翰が抵抗したため、385年9月に呂光は楊翰を降伏させて高昌を征した〔。ここで呂光は、淝水の戦いでの前秦軍の敗北、その後の長安の混乱を聞き知る事となった〔。
東進した呂光は玉門(現在の甘粛省玉門市)に入り、かつては前秦配下であった後秦配下の涼州刺史梁煕酒泉(現在の甘粛省酒泉市)西部で破った〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P129〕。姑臧に入った呂光は、かの地で涼州刺史・護羌校尉を名乗り、事実上の自立政権を打ち立てた〔。386年9月には、苻堅の死を知り、文昭皇帝の号を贈っている〔。10月、呂光は太安と改元し、酒泉公を自称している〔。正式にはこれが後涼の建国であった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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