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呂光 : ウィキペディア日本語版
呂光[りょ こう]

呂 光(りょ こう)は、五胡十六国時代後涼の創始者。略陽郡(現在の甘粛省天水)の人。
中国では呂布と併称される呂氏の猛将として、呂氏の族譜に掲載されることが多い。
==生涯==

===西域討伐===
名家の生まれでもともと前秦の臣下であった。はじめ美陽令に任ぜられ、後に鷹揚将軍に昇進し前燕が滅ぶと、都亭侯に封ぜられた。苻洛の叛乱を平定し、驍騎将軍に任ぜられた。
建元18年(382年)、宣昭帝苻堅の命を受けた呂光は都督西討諸軍事に任じられ、十余万の兵をもって西域討伐の遠征に出る。河西回廊を進軍し、焉耆を下し亀茲を破り、西域に前秦の威信が響き渡った。そのことによって遠方の西域諸国を帰順させることができ、令名を馳せていた名僧鳩摩羅什をその庇護の下に置いた。この時、呂光は鳩摩羅什に無理に酒を飲ませるなど、破戒させてしまったことが後世批判されている。〔紀野一義『法華経を読む』講談社現代新書、1982〕もともと呂光は亀茲に留まりたかったが、参謀を務めた鳩摩羅什が「ここに留まるべきではない、帰還すべきだ」と進言した上、また将兵たちも中原への帰還を望んでおり、財宝を持って帰還することを決断した。〔『通鑑紀事本末』「呂光、姑藏に據る。」など。現代語訳のページ

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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