翻訳と辞書
Words near each other
・ 呂五三型潜水艦
・ 呂五十一型潜水艦
・ 呂五十七型潜水艦
・ 呂五十三型潜水艦
・ 呂光
・ 呂公
・ 呂公望
・ 呂公著
・ 呂六〇型潜水艦
・ 呂六十型潜水艦
呂凱
・ 呂十一型潜水艦
・ 呂十三型潜水艦
・ 呂十六型潜水艦
・ 呂叔湘
・ 呂号第一〇二潜水艦
・ 呂号第一〇六潜水艦
・ 呂号第一一〇潜水艦
・ 呂号第三三潜水艦
・ 呂号第三十三潜水艦


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

呂凱 : ウィキペディア日本語版
呂凱[りょ がい]

呂 凱(りょ がい、生没年不詳)は、中国三国時代の武将、政治家。季平。子は呂祥。永昌郡不韋県の人。『三国志』蜀志に伝がある。
==生涯==
の時代に、呂不韋の一族や子弟は巴蜀の地に移住してきた。前漢武帝の時代になって、不韋県が設立され、呂氏の一族がそこに移住し、異民族の教化政策の任を果たした。これが呂凱の先祖であると言われている(『蜀世譜』)。
呂凱は郡に出仕し、五官掾功曹となる。蜀漢を興した劉備永安で死去すると、蜀を侮った雍闓等がと通じ反乱を起こした。
雍闓は呉により永昌太守に任命された。当時の永昌郡は、成都方面からの道が途絶していたが、呂凱は永昌郡の府丞である王伉と協力し、国境を閉鎖して雍闓の侵攻を防いだ。雍闓は檄文を度々送り脅迫したが、呂凱は道理を尽くして反論し、劉禅諸葛亮に服属するよう、逆に雍闓等に勧めた。呂凱の威儀と恩愛は広く知れ渡っていたため、彼は永昌の地を守り抜き、節義を全うすることができた。
225年、諸葛亮は南征の軍を起こしたが、その前に雍闓は高定の部下に殺害された。諸葛亮は南中の地に到着すると、呂凱と王伉の功績を上奏し、賞賛した。
同年春3月から秋にかけて、南中の反乱を鎮圧した諸葛亮は、益州郡を建寧郡と改名し、建寧と雲南の一部を割いて雲南郡を新設した(「後主伝」、「諸葛亮伝」)。呂凱はその雲南太守に任命され、陽遷亭侯に封じられた。
12月に諸葛亮は成都に帰還した(「後主伝」)。だが、間もなく南蛮が再び反乱を起こし、呂凱は反乱軍に殺害された。子の呂祥が跡を継いだ。
呂祥は蜀漢が滅ぶとに仕え、南夷校尉に任命された。子孫は代々永昌太守となり、李雄が永昌郡に進出したときも服属を拒否したという(『蜀世譜』)。
陳寿は彼を、自己の長所を生かして、時代に必要とされ名声を得た人物の一人として紹介し、節操を守り微動だにしなかったと評している。
小説『三国志演義』でも、王伉と共に永昌郡を守り抜いた人物として登場する。南蛮征伐に来た諸葛亮に「平蛮指掌図」を献上する。しかし、『演義』の原典となった『三国志平話』や『花関索伝』などではなぜか蜀軍と敵対し、関索と一騎打ちする武将という設定となっている。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「呂凱」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.