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彌助 ( リダイレクト:弥助 ) : ウィキペディア日本語版
弥助[わたるすけ]

弥助〔弥助、弥介、また旧字での彌助、彌介は、どれも同じ。同音異字の置き換えは江戸時代にはよく見られた。〕(やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷で、戦国大名織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた〔名前の分かる人物では、日本の史料に登場する最も古いアフリカ人の1人であるが、所在が確認できる期間は1581年3月27日から1582年6月21日の1年間余りと極めて短い。信長にとっては最晩年の家来衆となる。〕。
== 概要 ==
弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会イタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている〔『世界ふしぎ発見』2013年6月8日放送分では、当時のポルトガルが認識していた黒人部族はモザンビーク島周辺に住むマクア人だけであったため、弥助もまたマクア人であった可能性が高いとの説が紹介されていた。〕。ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。
天正9年2月23日1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた。『信長公記』の同日の記録には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている〔。〕。
天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという〔〔『イエズス会日本年報』が初出。前述のソリエの『日本教会史』やそれを受けたクラツセの『日本西教史』も年報を出典としている。〕〔藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店、2005年5月。〕。
本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという〔。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述がある〔「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。〕。
松平家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に目撃されたものであるが、この家忠日記の記述でも弥助は年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれている〔淡泊な記述の『家忠日記』にわざわざこのように書いてあるということは、「黒い」「背が高い」という驚きと同じく、自分と同じ扶持もちの家来であることも大きな驚きであったと思われる。〕。
天正10年6月2日1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと二条御所に行って戦った末、明智軍に捕縛された。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で命は取らず、南蛮寺に送った。
現代から見て、この処遇は光秀の黒人に対する蔑視を表していると考えられる一方で、藤田みどりは弥助を殺すことを忍びないと思った方便であるとの好意的な解釈を主張している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yasuke 」があります。




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