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廣瀬武夫 : ミニ英和和英辞書
廣瀬武夫[おっと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せ]
 【名詞】 1. current 2. torrent 3. rapids 4. shallows 5. shoal 
武夫 : [ぶふ]
 【名詞】 1. warrior 2. samurai
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

廣瀬武夫 ( リダイレクト:広瀬武夫 ) : ウィキペディア日本語版
広瀬武夫[ひろせ たけお]

広瀬武夫(ひろせ たけお、、1868年7月16日慶応4年5月27日) - 1904年明治37年)3月27日)は、日本海軍軍人
日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は「軍神」として神格化された。兄の勝比古も海軍軍人である。
== 経歴 ==

岡藩・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。西南戦争により竹田の自宅が焼失し、一家で飛騨高山へ転居した。飛騨高山の煥章(かんしょう)小学校(現・高山市立東小学校)を卒業後に小学校教師を務め、1885年(明治18年)に退職して攻玉社を経て海軍兵学校入校、同時期に講道館柔道も学ぶ。1889年(明治22年)に卒業(15期)。入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。
兵学校卒業後、翌1890年(明治23年)2月まで軍艦「比叡」に乗船、二度にわたり遠洋航海。その間に少尉に任官。半年だけ、測量艦「海門」の甲板士官となり、沿岸の測量、警備に従事。この時期、静岡県清水に寄港し、清水次郎長の知遇を得る。
1894年(明治27年)の日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。1897年(明治30年)にロシア留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、1900年(明治33年)に少佐昇進。1902年(明治35年)に帰国する。ロシア駐在中にペテルブルク大学で日本語を教えていた黒野義文から頼まれたこともあり、後に海軍少将となる義文の二男・森電三の相談相手となり、格別の世話をする。1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。36歳だった。即日中佐に昇進した。
5日後、遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるのを発見され、ロシア軍により埋葬された。日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。また、直撃を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、現在も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。嘉納治五郎は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。

ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている〔川村秀「軍神・広瀬武夫『ロシアの恋』の真実」『文藝春秋臨時増刊「坂の上の雲」』2011年12月〕。武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。
明治末期に、銅像が国内に3体建造された。
* 1905年(明治38年)3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像。
* 1910年(明治43年)5月に東京の旧万世橋駅前に銅像(杉野孫七像とあわせての群像)〔『東京日日新聞1908年(明治41年)12月26日朝刊東京版によると、海軍兵学校同窓の財部、森両名が発起。東京日日新聞、時事新報大阪毎日新聞の3紙が寄付金を募集。読者から2万3千円が集まった。同年12月23日に東京市長の工事許可が出た。22尺の台基の上に12尺の立像。台石の前面には杉野兵曹長の座像を、背面には錨一挺を配する、とある。〕が建てられたが、1947年(昭和22年)東京都によって撤去された〔『朝日新聞1947年7月23日朝刊東京版。また木村荘八『東京の風俗』(冨山房百科文庫)でも扱った章がある。なお「全集」は講談社。〕。
* 1912年(明治45年)5月に誕生地大分県竹田市に立像が建てられた。
上記の3体のうち、現在は高山市の城山公園と竹田市の広瀬神社に銅像が存在するが、明治に建造されたものは戦時中に供出されており、2体とも復元である。
2010年平成22年)10月、竹田市立歴史資料館の広場にブロンズ立像が建立された。竹田市の有志による「広瀬武夫ブロンズ像建立実行委員会」が、大分県出身の彫刻家である辻畑隆子に製作を委嘱。立像は身長2.6メートル、総事業費は2,350万円。10月22日の除幕式には、市民ら約150人が参加。祝詞奏上などの神事の後、竹田市ゆかりの作曲家・滝廉太郎の「荒城の月」が篠笛で演奏された。首藤勝次・竹田市長は「今は政治も文化も混迷の時代だが、広瀬武夫像が私たちの大きな羅針盤となって未来を指し示してくれると思う」とあいさつ。広瀬武夫の親族にあたる広瀬武尚が「日本人の本来の心を思いだすきっかけになってほしい」と話した〔[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/454316/ イザ!「坂の上の雲」の広瀬中佐ブロンズ像の除幕式]〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「広瀬武夫」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takeo Hirose 」があります。




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