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山尾庸三 : ミニ英和和英辞書
山尾庸三[やまお ようぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [み]
  1. (num) three 

山尾庸三 : ウィキペディア日本語版
山尾庸三[やまお ようぞう]

山尾 庸三(やまお ようぞう、天保8年10月8日1837年11月5日) - 大正6年(1917年12月21日)は、幕末から大正時代の長州藩士、官僚。子爵。長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋〔元々は武士階級だったが帰農した。〕であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父としても知られる。
==略歴==
萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。嘉永5年(1852年)江戸に赴き、航海術を学ぶ。
文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した〔萩の人物データベース 〕。文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加した〔ほか、塙忠宝伊藤博文とふたりで暗殺した。
文久3年(1863年)、藩命により陪臣から藩の士籍に列し、密航で伊藤博文井上馨井上勝遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、長州五傑と呼ばれた。ロンドングラスゴーにおいて、造船技術などさまざまな工学を学び、アンダーソン・カレッジにも通った。
明治元年(1868年)に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、明治3年(1870年工部省の設立に携わる〔朝日日本歴史人物事典 〕。明治4年(1871年)、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮(工部大学校)を創立。工部権大丞・工部少輔、工部大輔を経て、明治13年(1880年)工部卿に就任するなど、工学関連の重職を任された。また、参事院議官、参事院副議長も務めた。明治18年(1885年)より新たに創設された法制局の初代長官、宮中顧問官も務めている。明治20年(1887年)に子爵となる。
明治31年(1898年)退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ。
また、を患う身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、明治13年(1880年)に楽善会訓盲院を設立した。大正4年(1915年)には日本聾唖協会の総裁となっている。
大正6年(1917年)、心臓病のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)29頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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