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大阪陸軍造兵廠 : ミニ英和和英辞書
大阪陸軍造兵廠[へい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りく, ろく]
 (adj-na,n) six (used in legal documents)
陸軍 : [りくぐん]
 【名詞】 1. army 
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 
造兵 : [ぞうへい]
 (n) manufacture of arms
造兵廠 : [ぞうへいしょう]
 【名詞】 1. armory 2. armoury 3. arms factory 4. arsenal
: [へい]
 【名詞】 1. (1) (common) soldier 2. rank and file 3. (2) army 4. troops 5. (3) warfare 6. strategy

大阪陸軍造兵廠 ( リダイレクト:大阪砲兵工廠 ) : ウィキペディア日本語版
大阪砲兵工廠[おおさかほうへいこうしょう]

大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)は、大阪府大阪市にあった大日本帝国陸軍兵器工廠造兵廠)。太平洋戦争の敗戦まで、大口径火砲を主体とする兵器の製造を担ったアジア最大規模の軍事工場であった。また、戦前中の日本では重工業分野においてトップクラスの技術や設備を持っていたため、官公庁や民間の要望に応えて兵器以外のさまざまな金属製品も製造していた。大阪陸軍造兵廠(おおさかりくぐんぞうへいしょう)とも呼ばれる。
== 概要 ==

明治維新後、陸軍建設をおこなった兵部大輔大村益次郎の建言により設置が決まった。1870年3月4日(明治3年2月3日)、幕府長崎製鉄所の機械および技術者、職工を移設して兵部省直営の大阪造兵司が新設された。同年4月13日(旧暦)に大坂城青屋口門内中仕切元番所を仮庁として事務を開始した〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第1章 草創期の大阪砲兵工廠 p13〕。
大阪造兵司は陸軍省の発足とともに、1872年4月15日(明治5年3月8日大砲製造所と呼ばれた〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第1章 草創期の大阪砲兵工廠 p43〕。さらに1875年(明治8年)2月8日の組織改正で砲兵第二方面内砲兵支廠東京は第一方面内本廠)と改称された〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第1章 草創期の大阪砲兵工廠 p46-p48〕。1879年(明治12年)、砲兵工廠条例の制定に伴って10月10日陸軍省達乙七四号より大阪砲兵工廠となり〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第1章 草創期の大阪砲兵工廠 p72-p73〕。1923年大正12年)4月1日より施行された陸軍造兵廠令によって陸軍造兵廠大阪工廠と改称されるまで、単に「砲兵工廠」の名で大阪市民に呼びならわされた。1940年昭和15年)4月1日、陸軍兵器本部の設置に伴い大阪陸軍造兵廠と改称〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第5章 工廠内外の実態と破局 p401〕。
当初の敷地は大坂城三の丸米蔵跡地(現:大阪城ホール、太陽の広場など)だけであったが、1912年(明治45年)までに玉造口定番下屋敷跡地(現:記念樹の森、市民の森など)や京橋口定番下屋敷跡地(現:大阪ビジネスパーク)へ拡張され、1940年には城東錬兵場(現:JR西日本森ノ宮電車区大阪市営地下鉄森之宮検車場、森ノ宮団地など)へ拡張された。敗戦直前は土地596万m²、建物70万m²を有し、民間から土地220万m²、建物35万m²を借りていた〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第5章 工廠内外の実態と破局 p408〕。また、1945年(昭和20年)8月頃の最大工員数は約6万4000人であった(関係の民間工場従業員数については1945年6月時点で約20万人と記した資料もある〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第5章 工廠内外の実態と破局 p404〕)。
当時、大阪砲兵工廠はアジア最大の規模を誇り、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点であった。主に火砲・戦車弾薬類を開発・製造していた。また、鋳造金属加工分野では当時の日本においては最先端の技術水準を持っており、軍需だけでなく鋳鉄管や橋梁といった民需も受注していた。東京の靖国神社にある青銅製の第二鳥居は、1887年(明治20年)に大阪砲兵工廠で鋳造されたものであり、現存の靖国神社の全4基の鳥居の内では最も古く、また青銅製の鳥居として日本一の大きさを誇っている。日本で初めて製造された鋳鉄管を用いた大坂城天守閣南西側の内堀に架かる水道管(現存)は、大阪砲兵工廠で製造されたものである。
1945年6月26日7月14日アメリカ陸軍航空軍第20航空軍による爆撃(大阪大空襲)では大きな被害は無かったが、8月14日午後、約150機のB-29の集中爆撃で工廠は80%以上の施設が破壊されその機能を失った。空襲による砲兵工廠構内での死者は382人と報告されている。ただ、隣接地域を含めた犠牲者の総数については分かっていない。
戦後、焼跡地は不発弾が多く危険だという理由で放置され、約20年近く更地のままとなっていた。そこに敷地から鉄くずを回収し生計を立てる「アパッチ族」と呼ばれる人々が集まり、バラック集落を作るまでになった。アパッチ族とこれを追う警官との間に捕物合戦を繰り広げ、昭和30年代初頭まで新聞をにぎわせた。開高健1959年(昭和34年)発表した小説『日本三文オペラ』は、当時のアパッチ族たちの生活を描いたもので、有名になった。小松左京も1964年(昭和39年)に発表した初めての長編SF小説『日本アパッチ族』で、当時まで残っていた跡地をイメージし社会と隔離した地、「追放区」として登場させている〔三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』 第5章 工廠内外の実態と破局 p409〕。実際にアパッチ族の一員であった在日朝鮮人作家の梁石日も1994年出版の自著『夜を賭けて』に当時のことを描いている〔河村直哉『地中の廃墟から』 第6章 戦後、日本人はこの地をどのように朝鮮人とかかわったのか p208-p213 梁石日インタビューを参照。〕。2009年9月に明石家さんま主演で世田谷パブリックシアターで初演された生瀬勝久作の『ワルシャワの鼻』もこのアパッチ族を描いたものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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