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大阪電力 : ミニ英和和英辞書
大阪電力[おおさかでんりょく かぶしきかいしゃ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

電力 : [でんりょく]
 【名詞】 1. electric power 
: [ちから, りょく]
  1. (n-suf) strength 2. power 

大阪電力 : ウィキペディア日本語版
大阪電力[おおさかでんりょく かぶしきかいしゃ]

大阪電力株式会社(おおさかでんりょく かぶしきかいしゃ)は、大正末期から昭和初期に存在した日本の電力会社である。関西電力管内にかつて存在した事業者の一つ。
当時の大手電力会社大同電力の傍系会社として1925年(大正14年)に設立。同社が経営していた大阪府内の配電事業を引き継ぎ、堺市岸和田市などへ電気の供給を行った。1934年(昭和9年)大同電力へと吸収され、この地域の配電事業は再度直営化された。
== 沿革 ==
1922年(大正11年)7月に木曽川の水力発電所から大阪へと至る長距離送電線を完成させ関西地方への電力供給を始めた大同電力は、直後の同年9月、大阪府内の大阪市堺市および東成郡西成郡中河内郡南河内郡泉北郡泉南郡(後に泉南郡から岸和田市が分立)のそれぞれ全域を電力供給区域とする事業許可を取得した〔大同電力社史編纂事務所(編) 『大同電力株式会社沿革史』 大同電力社史編纂事務所、1941年、236-241頁〕。さらに翌1923年(大正12年)10月、大阪電灯の事業のうち一部が大阪市に買収(市営化)されたのに伴い、市営化の対象とならなかった残余の事業を引き継ぎ、堺市全域および中河内郡・南河内郡・泉北郡の各一部(計25町村)を自社の電灯・電力供給区域に編入した〔。
大阪電灯からの事業引き継ぎにより大同電力は堺営業所および河内営業所(八尾町)を継承し、岸和田営業所も新設して一般への配電事業に乗り出す〔『大同電力株式会社沿革史』、340-349頁〕。1923年12月には、岸和田市周辺および泉南郡佐野町貝塚町周辺の紡績工場や織布工場への供給を目的に建設が進んでいた送電設備が完成し、これらの地域への配電も開始された〔『大同電力株式会社沿革史』、164-166頁・年譜59頁〕。一方大阪市と東成郡・西成郡は宇治川電気と重複する電力供給区域であったので、1924年(大正13年)2月に同社との電力供給契約を締結した際大同電力はこの地域へと供給しないことが取り決められた〔『大同電力株式会社沿革史』、220-223頁〕。
大同電力の大阪府内における配電事業の実績は、初年度の1923年下期と1925年(大正14年)上期を比較すると、電灯供給(電灯取付個数)については12万4千灯から14万7千灯へ、電力供給については6千キロワットから1万4千キロワットへとそれぞれ拡大した〔。しかし1925年に至り大同電力は、主力事業である電気事業者への電力卸売りに集中すべく大阪府内の配電事業を子会社に経営させる方針を立てる〔。同年6月、同社は新会社発起人との間に事業および財産の現物出資に関する契約を締結〔。資本金1,000万円、払込資本金700万円のうち698万750円 (99.725%) を大同電力による現物出資、残りを発起人等による出資として、新会社大阪電力株式会社は1925年8月15日に創立総会を開いて発足した〔。なお、事業譲渡認可が遅れたため設立登記は10月28日である〔。初代取締役社長には大同電力副社長の増田次郎が就任した〔。
設立以来、大阪電力の事業は順調な発展を続け、1930年前後の不況期には増加率が低迷したものの電灯・電力ともに供給は増加を続けた〔。設立5年目の1929年(昭和4年)下期には電灯20万灯、電力3万1千キロワット、10年目の1934年(昭和9年)下期には電灯26万6千灯、電力3万9千キロワットを供給している〔。したがって経営成績も良好で、1926年上期は8.5%、同年下期より9%の配当を行い、1930年以降は電力業界一般の不振に際して内容の充実を図って減配としたものの8%、1932年以降は7%の配当を続けた〔。電源はすべて大同電力からの受電により、供給の伸びとともに受電電力は増加を続け1925年度には1万3,000キロワットであったものが1934年には2万6,500キロワットとなった〔『大同電力株式会社沿革史』、235-236頁〕。
1934年、大同電力は、業界内の競争激化により卸売り専業では競争力が低下してしまうとの考えから、大阪電力の配電事業を直営に戻す方針を固めた〔。同年5月1日付で両社は合併仮契約を締結、大同電力は大阪電力を吸収合併して資本金を1,000万円増資することとなった〔。合併比率は、大阪電力の額面50円・35円払込済み株式1株に対し大同電力の額面50円全額払込済み株式1株を交付するので、7対10ということになるが、大同側は1933年より無配なのに対し大阪電力は7%の配当を行いかつ多額の内部留保金を有する関係から大阪電力側を有利に設定された〔。合併は同年11月30日に実行され、大阪電力は消滅した〔。
なお大阪電力の設立以来の役員について見ると、初代社長の増田次郎は1927年(昭和2年)1月に辞任し、2代目社長に村瀬末一が就任〔。村瀬が1931年(昭和6年)12月に大同電力副社長辞任とともに辞任すると木村森蔵が代表取締役専務となり(在任のまま1933年12月死去)、1933年(昭和8年)6月の役員総改選の結果増田次郎が社長に復帰した〔。以後増田は大同電力・大阪電力の社長を兼任していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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