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大道寺直秀 : ミニ英和和英辞書
大道寺直秀[だいどうじ なおひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大道 : [だいどう]
 【名詞】 1. main street 2. avenue 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly

大道寺直秀 : ウィキペディア日本語版
大道寺直秀[だいどうじ なおひで]

大道寺 直秀(だいどうじ なおひで、慶長11年(1606年) - 寛永13年9月24日1636年10月22日))は、江戸時代の人物。
== 略歴 ==
慶長3年(1598年)、松平(久松)康元の四女満天姫、徳川家康の養女として福島正則の養嗣子・正之(正則の姉と播磨国別所氏一族・別所重宗の間の子)と婚姻。豊臣秀吉の死後法度を破るものであったが「豊臣親類の我が福島家と徳川家の婚姻は、天下安泰のため」とは正則の弁。ほどなくしてのちの直秀が生誕したと推測される。
慶長13年(1608年)3月(もしくは5月)、正之が養父正則から罪を糾弾され、幽閉ののち死去。一説には「正則が(正之を養子に迎え入れたのちに生まれた)実子福島忠勝に家を譲りたかったため」とも。
慶長18年(1613年)、満天姫は津軽藩主・信枚と再婚。母の再嫁に伴い直秀は「津軽信枚の弟分」として遇されることとなる。その後成人し、通称を岩見、諱を直秀と称した。津軽家の重臣大道寺直英の婿養子となり、大道寺岩見直秀と名乗り、津軽氏の家臣となる。この頃より「大名福島家の正式な当主は自分だ」という思いに駆られる。翌年、大坂の陣勃発(福島氏の一族が豊臣氏に加担し大坂城に入城した)。翌年豊臣氏滅亡。
元和5年(1619年)、上野国の津軽藩分領にて信枚の長男・信義誕生(母は石田三成の娘で側室辰姫)。この年津軽家に信濃川中島四郡10万石への転封の内示が出る。これは数字上では栄転だが、実収入的には減益となる移動であり、本拠地を遠く離れることにもなる。しかし満天姫や家臣、信枚自身らの江戸での政治的運動により転封は阻止される。代わって川中島に移された(二ヶ国49万石→4.5万石の大幅減封改易)のが満天姫のかつての義父であり、直秀の義理の祖父に当たる福島正則。
元和6年(1620年)、信枚正室・満天姫が信枚の次男・信英を出産。元和9年(1623年)、信枚側室・辰姫死去。信義は江戸の津軽藩邸に引き取られ、満天姫に養育される。
寛永元年(1624年)、福島正則死去。死後の手続きに不備があり、大名福島家改易。福島家自体は交代寄合旗本として存続するが、寛永14年(1637年)にはこの旗本福島家も福島正利の死去で一旦断絶する。
寛永8年(1631年)、信枚死去。津軽藩主は長男の信義(石田三成の孫に当たる)が若年ながら継ぐことになった。直秀はこれに不満だったらしい。
寛永13年(1636年)9月24日、直秀、自身をもって福島家の再興を図ろうと考え、江戸に上って幕府に訴え出る決意をする。「旅立ちのために母親(満天姫)に暇乞いに来た際、直秀が杯を飲み干した直後、直秀は苦しみだし、ついに絶命した」(『大道寺家譜』)。30歳ぐらいである、と伝わる。
大道寺氏の名跡は、直秀の娘喜久に津軽信枚の七男大道寺為久を婿養子とし、代々藩の家老を務める家柄として続いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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