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壺井重治 : ミニ英和和英辞書
壺井重治[つぼい しげはる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

壺井重治 : ウィキペディア日本語版
壺井重治[つぼい しげはる]

壷井 重治(つぼい しげはる〔戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ) 〕、1921年 - 1945年5月4日〔) は、日本の元アマチュア野球選手、大日本帝国陸軍軍人。早稲田大学野球部捕手として活躍した人物である。
== 来歴・人物 ==
八尾中学(現・大阪府立八尾高等学校)を経て、1941年早稲田大学に入学〔ROCKS!2013 早稲田大学主将・東條航のブログ。2013.03.12 沖縄キャンプ~まとめ~) 〕。小野欣助とは八尾中、早大の4年後輩に当たる。
1943年10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦では控え捕手(正捕手は伴勇資)としてベンチ入りした。
その後、試合から5日後の学徒出陣に伴い、戦地に出征。二度と復学する事は適わず、1945年5月4日午前5時30分に陸軍第66振武隊員として、万世基地(鹿児島県)〔〔 振武隊編成表(第66振武隊) 〕より特攻として出撃。程なく鹿児島近海で戦死した。享年24。出撃直前に家族や知人に宛てた遺書には「いよいよ時が参りました。5月早々を命日とご覚悟ください。必ず成功をと、一層決意を固めております。若輩の身に皇国の安危を背負い、光栄と感激に胸を躍らせつつ、一機一艦を屠るべく元気で出発いたします。写真の大きいのは黒枠用に願います。」とあった〔〕。また辞世の句も遺しており、「若桜嵐の中に散りゆくも 再び咲かす 靖国の花 必殺と雄叫びしつつ 我は今 敵艦目指して花と散りゆく」とあった〔。出撃直前に、戦後に義姉となる女性と出会い、両親の事をよろしく頼むと伝えていたと言われている〔『1943年晩秋 最後の早慶戦』刊行―早稲田と慶応、初めての共同研究― :文化:教育×WASEDA ONLINE 読売新聞、2008年12月10日特集記事〕。また実家のみならず、早大野球部の合宿所にも訪れ、後輩部員に向かって「俺は二度と還ってこない」と告げた話も残っている〔。
東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、小野と共に彼の名前が刻まれている〔〕。
没後の2008年夏、万世特攻平和祈念館(鹿児島県南さつま市)にて壷井の遺品が所蔵されている事が分かり、NHKニュースおはよう日本でも特集された(2008年9月18日放送。「今語られる最後の早慶戦」として特集コーナーで取り上げられた)〔。遺品の中には、出陣学徒壮行早慶戦の直前(1943年9月末)に両親に送った手紙があり、「一度自分の野球姿を見てもらいたかったが、遂に機会はなかった。何より残念です」と記してあったという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「壺井重治」の詳細全文を読む




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